〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/20 (火) 有 情 無 情 (一)

茶々姫は、昨夜 (二十一日) おそく、勝家が百人あるかなしかの人数で、こっそりと」城へ戻って来たのをよく知っていた。
べつにおどろ くことではなかった。
こんどの戦に全然勝ち味のないことは、はじめから分っていた。それでも、どこかで一度は秀吉に、手痛い打撃を与えるかも知れない・・・・そんな期待は持っていたが、それもできずに遁げ帰って来たらしい。
(やはり修理は、われらの実父、浅井あさい 長政ながまさ にはるかに及ばぬ人物だったのだ・・・・)
それは、実父への思慕しぼ からばかりでなく、茶々の勝し気な気性から割り出した答えだった。
負けると分っている戦に意地をかざして出て往きながら、生きて戻るというのが姫には がゆ い。
(実父の長政は、立派に自決して、決してあなど りはうけなかったというのに・・・・)
朝早く起き出すと、茶々はそれとなく母の様子をうかがった。
母は案外落ち着いて、その朝も、手洗ちよう を取ったあとの化粧の順序に、何の狂いも感じさせない。茶々はそれでいっそう勝家がさげすまれた。
(可哀そうな母・・・・)
先夫の長政は、きびしく武将の意地にじゅん じた人だけあって、その妻を殺そうとはしなかった。ところが、勝家は母を助けようとしている様子はないようだった。
いや母だけではなく、城に帰りつくと同時に、残った家臣の総動員を命じて、最後までみんなを道連れにする気らしく見えた。
おそらく、幼い者から、居残った老人まで、すべてを招集してみても、ものの三千は集まるまい。さすれば、ここでも勝敗は決まっている。
それなのに、最後の最後まで交戦するのを 「意地」 というのであったら、意地とはまた、何とむごく他人に犠牲を強いるものか。
勝家一人の意地を貫くために、みんなに死ねというにひとしい。その無意味な行為に、母はいま唯々いい として従いそうなのが茶々には何とも口惜しかった。
茶々は母の居間をのぞいて帰ると、すぐに妹の高姫と達姫を自分の前に坐らせた。
「高どのも達どのも、昨夜のことを知っていやるか」
「はい、お父上が遅く城に戻られた事でござりましょう」
末の達姫がさぐるように答えた。いつも用心深く、口数の少ない達姫が今朝は少したか ぶっているが分る。
「そうじゃ。戦に敗れて、みじ めな姿で遁げ戻って来られたらしい。それゆえ・・・・」
茶々姫は、わざと開いた窓から、清々すがすが しい風の流れの込む城下の方を指さしながら、
「この町も、城も、人も、これで終わりじゃ。このままここにおったのではなあ」
達姫は黙っていた。姉が何を言い出すのか、それをじっと待つ顔だった。
「よいか、修理はいかなることがあっても、われわれ姉妹はこの城から落とすというた。むろん実行するであろうが、われわれだけで落ちてよいものかどうか、それをこなたたちに計りたい。母上の事じゃ。母上をどうしたものであろうな」
そう言うと茶々は、改めて、また、高姫、達姫と見ていった。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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