勝家はうしろも向かず、おめきも、名乗りもしなかった。 このときの人数は、すでに脱走する者が相ついで、七千の本隊が全部で三千あるかなきかだった。 それだけに、自分の背後へ続く者を見るのが恐ろしかったに違いない。 進撃を開始した堀勢は、充分に相手が動揺しだしたと見てとって動き出したときだだけに、この反撃は意外であった。 勝家の後に続いて、砂塵
を巻いて出て来たのはせいぜい五百騎もあったろうか。しかしそれは見透
しの聞かぬ山峡の道いっぱいの大軍に見えていった。 「退くな。押し返せ。敵の人数は知れてあるぞ。押し返せ」 が、老いた猛猪
の一徹な反撃は、充分に堀勢の心胆を寒からしめる威力にみちていた。 「ワーッ」 と、前衛が崩れ出すと、出て来た距離だけ、先を争って退きはじめた。 勝家はいぜん真っ先に豪刀をひらめかして進んでゆく。 「殿!」 その前に、いきなり馬をおどらせて行く手をさえぎったのは毛受家照だった。 家照は勝家の馬がおどろいて突っ立つと、自分はひらりと馬をおり、いきなり、勝家のくつわにるはっていった。 「かほどまでに申し上げても、退かれませぬかッ」 「退かぬ。退かぬぞ。どけ、家照!」 「どきませぬ」 家照もはじき返すように言った。 「お進みなされねば、意地が立たぬと思
し召 さば、この家照を斬ってお進みなされませ」 「家照、無理を言うな。詫びておる。死なしてくれ」 「いけませぬ。このような山峡で泥にまみれた首級
を敵にお渡しなされて、それで、何の意地! なりませぬ」 「うぬッ、邪魔すると、斬って進むぞ」 「お進みなされ。さ、お斬りなされ」 勝家はぐっと太刀を振りかぶり、家照は、はげしく馬の鼻尖
に身を打ちつけてくつわを曳いた。 「今でござりまする殿! 敵はいったん退いた。馬をお代え下さりませ。殿の代わりに、この家照が、旗差し物と兜
をいただき、立派にこの場で、意地を果たして見せましょう。その間に殿はひとまず北の庄へ・・・・とこうの分別は、それからでござりまする。ええ、聞き分けのないバカ殿じゃッ」 そう叫ぶと、こんどは、家照はいきなり勝家の足をつかんで揺
すぶった。 勝家の太刀が悲鳴を上げて空でおどり、そのまま地上へおり立った。 「家照!・・・・」 「殿! まことの意地は泥首では立ちませぬぞ。この場の身代わりは毛受家照、決して殿の武勇に傷はつけぬ。兜を・・・・」 そう言われると、はじめて勝家は茫然といて道ばたに立った。 家照は兜に手をかけ、太刀をもぎ取った。そして、自分の馬の手綱を勝家に渡すと、勝家の鬼鹿毛にまたがって、 「近侍の衆は、殿のお供を頼み入る。退き戦に逡巡
して、家照の死を恥ずかしめたもうな」 勝家は、放心したように、金の御幣
の、わが馬標 を見上げていた。
|