〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/19 (月) 意 地 の 塔 (四)

勝家はうしろも向かず、おめきも、名乗りもしなかった。
このときの人数は、すでに脱走する者が相ついで、七千の本隊が全部で三千あるかなきかだった。
それだけに、自分の背後へ続く者を見るのが恐ろしかったに違いない。
進撃を開始した堀勢は、充分に相手が動揺しだしたと見てとって動き出したときだだけに、この反撃は意外であった。
勝家の後に続いて、砂塵さじん を巻いて出て来たのはせいぜい五百騎もあったろうか。しかしそれは見透みとお しの聞かぬ山峡の道いっぱいの大軍に見えていった。
「退くな。押し返せ。敵の人数は知れてあるぞ。押し返せ」
が、老いた猛猪もうちょ の一徹な反撃は、充分に堀勢の心胆を寒からしめる威力にみちていた。
「ワーッ」
と、前衛が崩れ出すと、出て来た距離だけ、先を争って退きはじめた。
勝家はいぜん真っ先に豪刀をひらめかして進んでゆく。
「殿!」
その前に、いきなり馬をおどらせて行く手をさえぎったのは毛受家照だった。
家照は勝家の馬がおどろいて突っ立つと、自分はひらりと馬をおり、いきなり、勝家のくつわにるはっていった。
「かほどまでに申し上げても、退かれませぬかッ」
「退かぬ。退かぬぞ。どけ、家照!」
「どきませぬ」
家照もはじき返すように言った。
「お進みなされねば、意地が立たぬとおぼ さば、この家照を斬ってお進みなされませ」
「家照、無理を言うな。詫びておる。死なしてくれ」
「いけませぬ。このような山峡で泥にまみれた首級しるし を敵にお渡しなされて、それで、何の意地! なりませぬ」
「うぬッ、邪魔すると、斬って進むぞ」
「お進みなされ。さ、お斬りなされ」
勝家はぐっと太刀を振りかぶり、家照は、はげしく馬の鼻尖はなさき に身を打ちつけてくつわを曳いた。
「今でござりまする殿! 敵はいったん退いた。馬をお代え下さりませ。殿の代わりに、この家照が、旗差し物とかぶと をいただき、立派にこの場で、意地を果たして見せましょう。その間に殿はひとまず北の庄へ・・・・とこうの分別は、それからでござりまする。ええ、聞き分けのないバカ殿じゃッ」
そう叫ぶと、こんどは、家照はいきなり勝家の足をつかんで すぶった。
勝家の太刀が悲鳴を上げて空でおどり、そのまま地上へおり立った。
「家照!・・・・」
「殿! まことの意地は泥首では立ちませぬぞ。この場の身代わりは毛受家照、決して殿の武勇に傷はつけぬ。兜を・・・・」
そう言われると、はじめて勝家は茫然といて道ばたに立った。
家照は兜に手をかけ、太刀をもぎ取った。そして、自分の馬の手綱を勝家に渡すと、勝家の鬼鹿毛にまたがって、
「近侍の衆は、殿のお供を頼み入る。退き戦に逡巡しゅんじゅん して、家照の死を恥ずかしめたもうな」
勝家は、放心したように、金の御幣ごへい の、わが馬標うまじるし を見上げていた。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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