〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/19 (月) 意 地 の 塔 (三)

「なに、文室山が落ちましたと・・・・!?」
勝家よりも毛受めんじゅ 家照が、愕然がくぜん として問い返した。
「それで・・・・佐久間どののお行方は?」
「生死不明の由にて、散り散りになりました雑兵が、右往左往、この狐塚へ合流して参った者も、ほんの少々・・・・」
「殿!」
家照は、与左衛門の話の終わらぬうちに後を引き取って、
「ご決断下さりませ。さなくば、左禰さね 山から東野へ下って行く手をふさ いでいる堀秀政が進撃を始めましょう。それと呼応して、秀吉に退路を断たれては、事は終わりにござりまっする」
しかし勝家は答えなかった。いぜんとして猪首いくび を立てて、空を睨み、大地の草を踏みにじって幕舎のうちを歩き廻っている。
もはや、何を考えているのでもなかった。
一報は一報よりもさらに悲運を深めて来ている。幕の外が騒々しくなって来たのは、そろそろ脱走する者が出て来た証拠であろう。
その動揺が、敵方に感受された時、羽柴秀長と堀秀政の敵の右翼は、いっせいに攻撃を開始するであろうし、右翼の攻撃が開始されると、秀吉は左翼から退路を叩いて来るに違いない。
そうした戦の定跡じょうせき は知りすぎるほど知っているだけに、勝家は身動きできない口惜しさを感ずるのだ。
もしここで、勝家に、これこそ、わが生命を くべきものとして 「大義」 が心に存したら、これほど迷いはしなかったであろう。
が、いま、彼の心を支配しているのは 「大義」 ではなくて 「意地」 であった。
どうして戦国の終熄しゅうそく を計るかではなくて、どうして秀吉に、屈さない一つの気魄きはく があるかを知らしめてやりたいという火を噴くような執念だけであった。
「殿! もはや、お考えなさる時期は刻々に過ぎて行きます。ご決断なされねば、将士が去就きょしゅう に迷いまする」
「馬を け!」
と、突然勝家は怒号した。
そうだ。それは六十余年の生涯を戦場から戦場で過ごして来た老武者の、悲しく迷った怒号であった。
「旗差し物を鞍に置け、馬はおに 鹿毛かげ がよい。家照、与左衛門、諌言は無用じゃぞ。それ見よ、堀の陣で鉄砲を射ちだしたわ。急げ馬を!」
そして、そのまま幕をくぐって外へ出た。
太陽は真上で燦燦さんさん ときらめき渡り、青葉にはさわ やかな東風があたっている。
勝家は小者の曳いて来たたくま しい馬にひらりとまたがると、
「許せよ、みな」 とはじめて声をやわら げた。
「今生で何もむく えぬ。あるはただ詫びばかりじゃ。生きては会わぬ。さらばじゃ」
ぐっと手綱を絞って、馬首を南に向け変えた。
秀吉はすでに背後を衝こうとしている。その秀吉に立ち向わず、東野の堀の陣に駆け入って斬り死にする気に違いない。
ドドドーッと、また堀秀政と、羽柴秀長の先手さきて から銃声がとどろいた。
「殿! お待ち下さりませ! 殿!」
毛受家照は、自分もあわてて馬にまたがり、勝家のあとを狂ったように追っていく・・・・

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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