〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/18 (日) 意 地 の 塔 (二)

「あのバカめが、あしの命を聞き入れず、とうとう、秀吉のわな にかかっての、前田父子にまで見限られたわ」
勝家はそう言いながら、ぐるぐると怒った熊のように幕の内を歩きまわった。
毛受家照はじっと片手を地面についたまま、次に出される勝家の命令を待っている。
「前田父子が引き揚げると、徳山秀現も、不破勝光もきっと戦場を捨てるであろう。そうなれば盛政が軍勢は雲散霧消、秀吉は少憩の後、われらの背後へまわるに違いない。おことも、そう思うであろう」
「残念ながら、ご明察のとおりかと」
「しかも、堀秀政め、そうなる事を確信して、いままでわれらrに討ってかからぬ。敵ながら小癪こしゃく巧者こうしゃ じゃ」
「されば・・・・」
と、家照は、勝家の命の出ないことにあせりを覚えて、
「あと半刻で、およいよ堀、羽柴の両勢も動き出すかと心得まするが」
「動こうとも、敵が動く前に味方が動こう。前田父子が引き揚げたと分ると、もはや雑兵どもは逃げはじめるに違いない。それが分っているゆえ無念なのじゃ」
「ご無念はお察しいたしまするが、勝敗は兵家のつね、なにとぞ、すぐに北の庄へ引き揚げのご下命を」
「家照!」
「はいッ」
「おことがそう言うと分っているゆえ、この勝家は命を下しかねている。よいか、重ねて言うな。勝敗は兵家のつねではない。こんどの敗れはすべての終わりじゃ」
「殿! それがしは、そうは思いませぬ」
「重ねて言うのか、おことは」
「はい、申しまする。それがしは、無意味な戦を避けて、戦場を離脱した前田父子の肚のうちがよくわかる気がいたしまする」
「なに・・・・どう分るのじゃ。おことには」
「前田ご父子が、双方へ義理を立てられ、いずれへも弓をひかずにこの場を退かれたは、無言で殿に北の庄へお引き揚げあるようにとの諌言かと心得まする」
「これはおかしな事を言うぞ、家照が」
「おかしくはござりませぬ。ここでひとまず北の庄へお引取りあれば、前田父子が府中の城にて、秀吉の進撃をさえぎり、平和を講ずる下心・・・・それの違いござりませぬ。それゆえ、寸刻も早よう、引き揚げのご下命あるよう、家照、このとおり、お願い申し上げまする」
勝家はしかし答えなかった。答える代わりに、ぐっと青空を睨み上げ、またゆっくりと幕のうちをまわり出した。
「殿! 何とぞ、ご下命を、いまの一刻は、ご武運の分かれ目ともなりましょう」
「家照」
「はッ」
「それはならぬ。ならぬぞ。この勝家が六十余年の誇りを捨て、秀吉に背を見せて、逃げ得る男かどうか考えてみるがよい。むろん命は下すが、それは引き揚げの命ではない。逃げるものは逃げよ。落ちる者はとめるな。が、この勝家は、どこまでも秀吉に馬首を向けて倒れてゆく、意地じゃ! 悲しい意地じゃ。とめてはならぬぞ」
そこへ、中村与左衛門が走りこんで来て、
「分室山が、敵の手に落ちましてござりまする」
と、告げていった。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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