佐久間玄蕃盛政は、権現坂の近くまで兵を退かせ、 (これで行市山へ引き揚げられる) と、ホッとしていた。 行市山に引き揚げて、実弟の柴田勝政の軍勢とひとつになれば充分再起は期し得られると思ったのだ。 ところが、勝政の軍勢に引き揚げを命じ、これが退却しだしたころから形勢は一変して来た。 それまで満を持して放たなかった秀吉が、にわかに貝を吹き立て、鉄砲を射ちだしたと思うと、猛虎
のような勢いで、勝政勢を寸断しだしたのである。 それでなくとも勝政勢は疲れ切っていた。 ずっと昨日から戦いつづけたうえ、盛政の引き揚げを援護して来ている。それが、終わって、退却と決まったときに襲われたのだ。 名のある者はともかく、雑兵はもはや戦意を失って、あの藪
、この谷と霧消 をはじめた。 秀吉の狙っていたのがこれであったと分ると、盛政はギリギリと歯を噛み鳴らして口惜しがった。 時刻はかれこれ、五ツ半
(九時) 。 次々にもたらされる報告は、味方の名だたる大将が討たれた知らせばかりであった。 「よし、このままには済まさぬ。もう一度討って出て勝政を迎え取れ」 これも疲れ切っているわが馬廻りに改めて命を下そうとしているところへ、 「申し上げます」 あわただしい近侍の知らせであった。 「何事じゃ。また、誰ぞ討たれたのか」 「いいえ、一大事でござります。茂山にあった前田父子の軍勢が、陣を捨ててわれらの退路へ移動を開始いたしました」 「なに、前田父子が、われらの背後に・・・・それは裏切りではないかッ」 「仰せのとおり・・・・と、存知まする」 「どけ!
この眼で見ねば信じられぬ。まさか前田利家が・・・・」 しかし、あわてて幕舎
を出てみると、近侍の報告どおり、前田勢は茂山を降ってぞろぞろ北へ移動を開始している。 「しまった!」 盛政の唇からはじめて絶望の呻
きが洩れた。 「勝負は、戦場以外のところで決まっていたのかッ。伯父上が警戒されたのは・・・・」 盛政はそのまましばらく石のように動かなくなっていった。 勝家がしきりに引き揚げを命じたのも、これを案じてのことであったと腑に落ちたが、もはや手の下しようはなかった。 前田勢は本陣を放棄
して続々と山を下り、分室山の裾
から、塩津目指して脱走する模様であった。 こうなってはもはや、盛政の本隊すら反撃はきき入れまい。 そこへさらに刺刀
をさすような知らせであった。 「── 賎ケ岳の砦から桑山重晴と、丹羽勢がはせ下り、追撃隊に加わってござりまする」 「── 追撃隊のうしろから、新手が三千、加わってござりまする」 「──
明神山の敵が、われらの退路を断とうとして動き出してござりまする」 佐久間盛政はそのいずれにも答えず、とつぜん大口をあいて笑いだした。 |