佐久間盛政の殿
り軍は、秀吉の予想したとおり、越中原森
の城主、原彦次郎と加州大聖寺
の城主、拝郷五左衛門がこれに当たった。 そして、盛政の部隊を無事に行市山系の高地へ引き揚げさせるため、弟の柴田勝政は、兵二千をもって賎ケ岳の砦の西北約五十間ほどの掘切の東西に陣して、敵の追蹤
から援護しようとして待っていた。 盛政としては、この退出策戦に失敗したのでは、だいいち、総大将の勝家に合わせる顔がなく、その才能を永遠に疑われる事になる。それだけに、月明かりを利用しての引き揚げとしては予想外の速度であったといってよい。 彼は、追いすがって来る秀吉勢に、殿り軍をして頑強に抵抗させながら、ついに夜の白々明けに余呉湖
の湖岸に沿うて無事に権現
方面へ引き揚げを完了した。 秀吉はどうしてこれを叩かなかったのか? これを当然目標にして行動していると思ったのに、なぜかそのときには動かなかった。 あるいは夜明けの霧を避けたのかもしれない。 夜は明け放たれた。 権現坂方面へ引き揚げた佐久間盛政から、堀切の東にあった軍勢と西にあった一隊と合わせて、すぐ背進を開始し、自分に追いつくようにと勝政のもとへ命令が届き、勝政軍が、じょじょに退却を開始すると、はじめて秀吉の采配があがった。 すでに、この地へ移って、堀切包囲の態勢を整え、じっと闘志をおさえていた秀吉の近侍は、このときいっせいに敵中へ突入した。 世に言う賎ケ岳の七本槍、加藤清正、福島正則以下九人
(七人に非ず) が阿修羅
のように敵中へ突き入ったのはこのときである。 時に二十一日の寅の半刻 (午前五時) 。 そこここで悲鳴があがり、銃声が轟き、名乗り合う声、下知の声が谷から村、村から山へ手に取るように谺
した。 勝政の軍勢も、殿り軍も、決してこれは予期しない事ではなかった。 しかし、盛政の本隊を援護して退かしめたという安堵と、不眠不休の疲れが出てきて、ホッと一息ついたところを急襲されたので、襲われた時には心理的な混乱が大きかった。 相手が混乱すると、いよいよ秀吉の荒小姓たちは気負い立った。 石川兵助貞友
は、 「手柄で他人に譲るものかッ」 いつも全軍の利を考えて、一人の功名を禁じられているのに、この日だけは法度
を許すと秀吉に言われているので、三尺四寸の自慢の大太刀をふりかぶり、馬を乗り捨ててり殿り軍の大将の馬廻りとおぼしきあたりへ斬り込んだ。 いやそれは斬り込むというよりも、斬り且
つ撲 るといった方がよかった。 「羽柴筑前守が近侍、石川兵助貞友、自慢の大太刀の金味
、ご覧候 え」 そう叫ぶと、見る間に敵八騎を倒して、大将の側へ走り寄った。と、 「小癪
なッ、越前の安井左近が弟、四郎五郎、来いッ・・・・」 大将の右から大身の槍を構えて突きかかって来るのを、兵助は躍
り上がるようにして叩きなぐった。 相手は槍を持ったまま胸板を乳房の下まで斬り下げられて、あたりの暗くなるほどの血しぶきをあげて倒れてゆく。 兵助は返り血を浴びて赤鬼のようになったまま、すぐ次の騎乗
の大将に踊りかかった。 |