〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/17 (土) 玄 蕃 崩 れ (二)

「なに、物見の者が戻ったと。これへ連れて参れ」
盛政は大声で答えながら、自分の方からせかせかと安井左近に近づいていった。
「左近、やはり筑前か」
「仰せのとおりでござりまする」
左近の声もあたりをはばかり、ささやくように小さくうなっている。
「しかと、間違いないか」
「まことに、夢のようでござりまする・・・・が、すでに秀吉は木ノ本の本陣に到着、汗も拭かずに、田うえ山へのぼって行ったとござりまする」
田上山は、木ノ本の北方、北国街道の東沿いにあり、留守中の大将を命じられていた丹羽秀長の別働隊が占拠せんきょ して、北国勢の動きを見守っていた要地であった。
その田上山に、秀吉がのぼって行ったという・・・・むろん北国勢のさまを偵察するためであろうが、どうして今ごろ、この地に彼が姿を現したのか、盛政には想像もつかなかった。
しかし、秀吉だけでなく、数万の大軍がすでに到着し、今も続々と山野を埋めてやって来ている。
「左近、月の出は九ツ (十二時) だったな」
「はい。九ツ少し前でござりましょう」
「士気はどうじゃ。味方の士気は?」
「残念ながら・・・・」
と、左近はさしうつむいて語尾を濁した。
「であろう・・・・猿め、つねに大軍と共にあるゆえなあ」
「仰せのとおり、留守中でさえ数でははるかに及ばぬところへ、丹羽長秀は湖上を押し渡り、筑前がああしてやって来たのでござりまする」
「無念じゃ」
盛政は血走った眼で舌打ちして、
「彦次郎を呼んでくれ。それから弟勝政、安政の陣へも使いを飛ばさねば相なるまい」
言いかけて、盛政は、
「あ、狼火のろし じゃ、あれは」
東北の空をのぞんで小手をかざした。田上山と覚しきあたりから一筋ゆるく赤い火柱が尾を曳いて立ちのぼったと思うと、その左手で、それに応えるようにするするとまた二条の火竜が天をめざす・・・・
「しまった!」 と盛政はうめ いた。
「あれは、たしかに前田父子と不破の陣地じゃ。うぬッ、裏切ったなッ」
そもそも、秀吉の留守を報じ、二十日早暁に大垣から岐阜へ進撃して行くなどと、まことしやかに知らせて来た、長浜城の内応者の言葉までもが怪しく思えた。
「左近、退こう、月の出とともに、すぐに準備を」
盛政はそう言うと、自分から先に立って岩を馳せ下った。
ともすれば、ここで朝を迎え、全軍の壊滅を期しても、すすんで秀吉に当たりたかったが、勝家の命にそむ いているひけ目がそれを逡巡しゅんじゅん させた。
曳くとなれば寸刻を争う。決断すると、盛政もまた 「鬼」 と異名を取った猛将だった。
「── 月の出とともに、各隊とも余呉湖よごのうみ のふちを西へまわって引き揚げること」
原彦次郎、拝郷五左衛門、それに柴田勝政、徳山五兵衛らの陣地に使者を飛ばすと、盛政は、乗馬を引きつけ、自分もじっと空をにら んで月を待った。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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