〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/16 (金) 玄 蕃 崩 れ (一)

佐久間勢は、桑山重晴をして賎ケ岳の砦をうまうあmと明け渡させたと思っているところへ、丹羽長秀の援軍が現れて、いったん山をおりかけた桑山勢もまた引っ返して来たと知って、やむなくその夜は攻撃の手をゆるめた。
早暁からの山岳戦さんがくせん で、味方の疲労ははなはだしい。それに、前田利家以下の動きは活発を欠き、勝家自身も、早く引き揚げよとばかりで平地に出てくる気配はない。
そこで大岩山のふもと に陣営し、夜の明けるのを待って、賎ケ岳をくだし、岩崎山、大岩山、賎ケ岳の一線を確保して長浜平野への出口を固めようとし、その夜は早く野陣で眠りかけていた。
と、五ツ半ごろになって、急にあたりがガヤガヤと騒がしくなって来ている。
月の出は九ツ (十二時) すぎ。
(何であろうか・・・・?) と耳をすますと、雑兵ぞうひょう どもの声高な話し声であった。
「こりゃおかしい。あの万灯会のような松明の行列はただごとではないぞ」
「いかさま、これは何万という大軍の参陣じゃ」
「何万というたら、いい加減の大将ではない。こりゃ、美濃にいると見せかけた秀吉が、どこぞへ隠れていたのではあるまいかの?」
「バカなことを、秀吉は、たしかに大垣から東へ出て戦っているはず。いくら、早く引き返しても、明日中にここへ着くという事はない。それにしても、美濃街道から木ノ本は松明の海じゃぞ」
「おん大将は知ってござろうか?」
「誰かお側の者がお耳に入れているであろう」
佐久間盛政はこのささやきでガバと起き直った。
「これ、誰かある。物見を砦へ・・・・」
言いながら、そのまま幕舎を出て、左手の大岩にかけのぼった。
雑兵の言うとおり、これはただ事ではない。まさに見渡す限りの火の海だった。
「秀吉、参陣と見えまする」
太刀をささげて来た小姓に、そう言われたときには、ゾーッと背筋が寒くなった。
「たわけた事を申すな。秀吉とても鬼神きじん ではない。大垣から、かくも早く参陣がなるものか。心強く思え!」
口ではきびしく叱りながら、その実、すぐに偵察を出さずにはいられなかった。
安井やすい はおらぬか。左近さこん を呼べ」
「はッ、安井左近はこれに控えておりまする」
「左近、心 きたる者を物見にやれ、誰の参陣か、しかと探って来いと申せ」
「かしこまりました」
左近があわてて物見の岩を下がってゆくと盛政はもう一度、半ばうっとりと松明の動きを見つめた。
心のどこかで、はげしい悔いが、じりじりと血肉を噛んで来る。
(一応敵撃破のうえは必ず引き揚げること。その約束なら動くもよかろう)
伯父の勝家に繰り返し繰り返し言われていながら、今日の暮れ方、ついにここで夜陣を張り、退却を聞き入れなかった盛政なのだ。
(もしや、これが、まこと秀吉の参陣あったら・・・・)
そのときには、もはや面目にはこだわらぬ。月の出を待って引き揚げるよりほかにあるまい・・・・
そうした感懐かんかい で、じっと立ち尽くしているうちに、
「物見の者が戻りました」
と、安井左近の声であった。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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