〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/15 (木) 賎 ヶ 岳 (十二)

第一の選抜隊、脚自慢の者五十人で大垣城を先を競って飛び立ってゆくと、秀吉ははじめて声を立てて笑った。
これから木ノ本へ引き返すと、ほとんど夜の急行軍になってゆく。万一、勝敗を危ぶむ者が途中にあっては、それこそ、五十人百人の野武士百姓の群れであっても、意外の障碍しょうがい になるに違いない。
それらの邪魔をなくするためには、勝つ者は秀吉と、はっきり思い込ませておく必要があった。そのうえ村々の各戸に炊き出しを命じてあれば、知らず知らずのうちに、味方の気分となり、まつまた急行軍の将兵の饑渇かわき は見事に救われる。
一石二鳥も三鳥も狙った秀吉の思案は、さらに、長浜から木ノ本までの街道を松明の火でうずめさせようというのである。
この松明の火を見たら、おそらく本隊の到着以前に、敵は、
「── 秀吉来る!」 と錯覚さっかく して狼狽しだすに違いない。
「さあ、これで勝ったぞ! 氏家どの氏家どの」
秀吉は床几を立って、この城の主、氏家直通をさし招いた。
氏家直通は、一瞬どきりとしたように眼をしばたいてあたりを見、それから秀吉の前へすすんで平伏する。
彼は、万一秀吉が江北へ引き返すようなことがあったら、岐阜に寝返るよう、信孝から密使をうけていたのである。
秀吉は、むろんそれを知っていた。知っていながらいささかも問題にしていない磊落らいらく さで、
「さて、氏家どの、いよいよこれで天下はこの秀吉の手のうちにころ がりこんだ」
とまた例の宣伝にとりかかった。
「おかしなものでのう、出水までがこの秀吉の味方をする。予定通り今朝川を渡っていたら、まさか今朝までに柴田や佐久間を討ちのめすわけにもいかなんだであろうになあ。それが、ご覧のとおりじゃ。というて、わが手勢てぜい 三万、みな引き連れて行ったのでは、おことが心細かろう。柴田の首をはねて立ち戻るまで、当城に一万五千、堀尾吉晴に付しておいて参る。万一、信孝が出て参ったら、よきほどにあしらいおくよう」
「はッ」 と答えて、氏家直通はまたあわただしく視線を動かした。
すっかり秀吉に肚の底まで見抜かれているような気がして思わず背筋が寒くなった。
「聞くとおりじゃ、吉晴、しかとここの留守をいたせよ」
「ははッ」
天気はあがる。川は渡らぬ。佐久間は出て来る。武装はできている・・・・ハハハ・・・・さてもさても幸運の神に取り かれたものよ、この秀吉は。さ、では、みなの者、兵糧は途々でみなを待っている。木ノ本まで息もつくまい。走りながら食べ、走りながら み、走りながら天下を取ろうぞ。思いめぐらせば故右府さまの田楽狭間の大勝利のおりがこうであった。小姓ども、今度こそは思いのままに手柄をしよれ。よし、では出発の用意をしようぞ」
空はからりと晴れて、しきりにとび を舞わせている。そろそろ青葉あおば 東風ごち の匂いをかざして、葉裏をひるがえす風と光がさわ やかだった。
秀吉は全軍の閲兵えっぺい を終わると、加藤光泰、一柳直末ら、数騎の近臣を従え、本隊に先行、風のように城門を出て行った。
時に七ツ (午後四時) 少し前であった。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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