〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/16 (金) 賎 ヶ 岳 (十三)

秀吉は馬をあお って、長松まつなが垂井たるい と一気にかけた。そして、関ケ原にかかろうとするところで、第二の注進に道で出会った。
中川瀬兵衛清秀の戦死と、佐久間盛政の進出を知らせに来たのである。秀吉は馬上でこれを聞くと、
「清兵衛、許してくれ」
と、大声で虚空こくう をおがんだ。
「必ず仇は討って進ぜる。また、おことの後は立派に立てようほどに許してくりゃれ」
もうそのころには道は暗く、申し付けてあった炊き出しが村々の中央に湯気を立てて握り飯の山を作っている。
秀吉はその前にいちいち馬をとめて、
「大儀大儀、この上ともな、酒があらば出せ。また、馬の飼料にこぬかを混ぜ、合いぬかにして、馬どもの接待も考えよ。代金はあとで十倍ずつに支払いつかわす。よいかの、この戦で天下は秀吉の手中に帰すのだ。後から進んでくる大軍に、必ず腹を かせまいぞ」
そして、また次の村落に入ってゆくと、
「おお、ここは赤飯、餅の用意までしてあったのか。よしよし、秀吉、しかと心に覚えておくぞ」
またある村落では、
「急げ急げ、賎ケ岳へ急げ。よいか、明俵あきだわら は口を結わえて二つに切り、それを塩水でしめして中に飯を入れ、馬に積んで賎ケ岳へ急げ。そして、道行く兵に、これは飯だ、おあがりなされ、お上がりなされと触れて行け。みな食べて二人前取る者があっても、あえて責めるな。着物にお包みなされ、手拭につつんでお持ちなされとすすめるがよい。何人分取っても、それを持って戦場へ行くゆえ、決して無駄には相ならぬぞ。それから馬の飼料にも目印をつけておき、これはお馬の合いぬかでござりまする、ご用なれば、お持ち下されと渡してやれ。よいか、代価はあとで十層倍じゃ、個人個人の名は言うな、何ごおり の何々村と、村や里の名だけを申せ。さ、急げや賎ケ岳へ!」
こうして秀吉のあとから大垣を進発した軍勢は、秀吉の命令どおり、食べながら駆け、駆けながら呑んで、文字どおり疾風迅雷しっぷうじんらい の進撃をつづけてゆく。
関ケ原を過ぎるころにはもう真っ暗で、道は松明たいまつ で埋めつくされた。関ケ原から春照すいじょう の南をすぎ、長浜へ出て木ノ本の本陣までは、大垣から約十三里ある。秀吉がもし川を渡って岐阜城へ挑んでいたら、木ノ本到着は、佐久間盛政の計算どおり、どのように急いでも三日後になっていたであろう。
それが、五ツ (午後八時) すぎに春照を出発し、北国往還おうかん野村のむら尊勝寺そんしょうじ 、小谷 (伊部郡上)馬上うまかみ井口いぐち を経て木ノ本に到着したのが五ツ半 (九時) すぎ。
一方、兵站へいたん 部隊は長浜から木ノ本に到着した。
一万五千の軍勢が十三里の道をわずか五時間あまりで駆け通したのである。したがって、春照から木ノ本、鉢ケ峰から美濃街道いったいは、さながら万灯会まんどうえ を見るような松明の行列だった。秀吉はその先頭を切って、木ノ本の本陣に達すると、
「中川清兵衛を討ち死にさすとは腹の立つものじゃ」
弟の羽柴秀長を叱りつけて、秀長がないか言おうとすると、
「わかっている、その分、おことが働くこと」
言う間ももどかしそうに馬を返して、参陣して来る将兵の閲兵に取り掛かった。
「空腹の者はないか、疲れた馬はいたわ りとらせ。これから夜明けまでに天下のことは賎ケ岳で決まるのじゃ。草鞋わらじ 脚絆きゃはん の用意はよいか」
それが自慢の大声で、右に往き左に走って、疲れを知らぬ八面六臂ろつぴ のうごきであった。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ