〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/15 (木) 賎 ヶ 岳 (十一)

秀吉が、佐久間勢出撃の注進を受け取ったのは二十日の正午過ぎであった。
佐久間盛政の計算によれば、二十日の正午過ぎには、秀吉はすでに大垣の城を出て、揖斐いび 川を渡り、渡合あたりまで進出しているはずであったが、秀吉は、全軍を武装させて、いつでの進撃に移れるよう充分準備は整えておきながら、夜が明けると、前日の言葉をひるがえして渡河とか を中止させた。
「── まだ水がひかぬのう。もう一日このまま待ってみるか」
馬廻りの者のうちには、これに不服らしい者もたくさんあって、
「── 何のこれしきの水、渡れぬことがあるものか。おん大将は用心ぶかすぎる」
しかし秀吉は笑って言った。
「わしは出水と戦うために出て来たのではない。川の中で一人でも失うことがあっては物笑いじゃ。というて、具足を解くことは相ならぶぞ。あるいは午後に至って、ずっと減水するやも知れぬ。減水したら今日中に渡河することになるやも知れぬでのう」
そうして、みながしきりに東方の水量に気を取られているところへ、西方から、北国勢江北進出の早駆けがとどいたのだ。
秀吉は複雑な表情でほそく笑んだ。
「そうか。それは一大事じゃ。わしの留守を狙うて来られたのではこのままに済まされぬ。ただちに引き返して、雌雄しゆう を決さねば相なるまい。よしッ、歩行の士二百人のうちから、特に足自慢の者五十人を選抜して連れて参れ」
加藤光泰にそう命じると、みずから本丸前の幕舎ばくしゃ に出て来て、集まる者を床几で待った。
その間、秀吉は、締めても締めても口辺こうへん が笑いに崩れていってならなかった。
柴田勝家も、かって信長に 「うぬの戦いぶりはいのしし じゃぞ」 よくそう言われたものであったが、佐久間玄蕃盛政は、その勝家の若いころに輪をかけた猪ぶりだ。
それだけに秀吉は、身長に思案してわな をかけて来たのである。
(その罠にとうとう猪めがかかりおったわ・・・・)
といって、どんな時にも無理な戦をする秀吉ではなかった。まず人数、配備で敵を圧倒し、それから敵の内部へあれこれと好餌を投げて内応者を作っておき、そのうえさらに信長そのままの奇襲も試みようというのが秀吉の戦術だった。
これだけ綿密に布石ふせき した上で、
「── 戦えば必ず勝つ!」
そう豪語するのだから、この豪語はいつもそのまま実現し、今では味方の信仰にさえまっている。
選抜された足達者あしだっしゃ が五十人、続々と幔幕のうちに入って来ると、秀吉は昂然こうぜん と第一の命を下した。
「その方たちは、これよりただちに大垣から木ノ本に至る道すじの村から村へ触れて行け。よいか、各家のま間口まぐち 一間いっけん ごとに米一升ずつを炊き出して兵糧ひょうりょう となすこと。むろん、その方たちの後から進発する軍兵の兵糧じゃ。そして、小谷に至れば夜になろう、小谷から木ノ本までの村々では、炊き出しのほかに、馬糧を出させ、さらに松明たいまつ をかかげて、われらを待つこと。よいか、小谷から木ノ本までの道は、われらの到着に先だって、松明の火でいっぱいになるように手配してゆけ。すべての費用は、あとで十層倍にして支払い取らすぞ。天下分け目の戦、これできわまったと布令ふれ てゆけ! 新しき天下人てんかびと 、秀吉の命じゃときびしく申せ」

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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