〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/15 (木) 賎 ヶ 岳 (十)

そのころ ──
大岩山の麓に野陣して、賎ケ岳の動向を見守っている佐久間玄蕃盛政と、山峡の狐塚に本陣をおいたまま動かない総大将の柴田勝家との間に、いくたびとなく軍使の往来がつづいていた。
「どれもこれも、何というらち の明かぬ使いじゃ。いったい、どうして、伯父上は出撃を聞き入れないのか。理由があろう。それを聞こう」
盛政は、最後に使いにやった原彦次郎を前にして、まっ赤になってきき返した。
原彦次郎は、そうした相手の感情に巻き込まれまいとして、ゆっくりと幔幕まんまく のうちを見廻し、それからかがり火にまき を添えた。
「今、これ以上動いてはならぬのだ。盛政はまだ がぬけぬと申された」
「なに血の気が抜けぬ。わしが血気けっき にはやっているのではない。伯父上が老耄ろうもう されたのじゃ。猿めの留守にせっかく陥れたこの要地、これを足場にして、長浜平野へ押し出しておかずに何とするのだ」
「はい、その事についてはこう申されまするので。木ノ本には羽柴秀長と」蜂須賀彦右衛門が残っている。また、眼の前の左禰さね 山へは堀秀政がいる。動く時ではないゆえ、すぐに以前の行市山に兵を引くようにと・・・・」
「同じことだ!」
盛政は焔を赤々と映した眼をカッと見開いて歯がみをしながら軍扇を振った。そのはずみに、床几の脚が土に滅入る。
「堀秀政も、伯父上が動き出したら必ず動揺して木ノ本へ合体しよう。それを双方から攻め立てるのだ。秀政ずれが、何でそのように恐ろしいものかと、もう一度申してまいれ」
「ではござるが・・・・」
と、原彦次郎は、立つ代わりに、また薪を焚き火の中にほう りこみながら、
「万一、山峡を出て木ノ本を攻め立て、それが落ちる前に、秀吉が引き返してきたのでは味方の行き場がなくなろう。それゆえ引っ返せと申されます」
「黙れ! 猿が岐阜から引き返すまで、何で手をつかねているものか。今日注進がついたとして、明日引き揚げの手配をととのえ、明後日早朝に岐阜を出発して、ここへ到着するのはあと三日の後じゃ。それまでには長浜城を手に入れ、それ以北の地は厳重に固められる。wしは引き揚げぬ。引き揚げぬぞ」
「それではしかし、お約束が・・・・」
「何の約束など・・・・戦は水ものじゃ。勝ったらその勢いを利用せずに何とする」
「とにかく・・・・」 彦次郎は困惑したように首をふりながら、
「決して長追いはせぬという約束、今日の戦果はあっぱれなれば、すぐにお引き上げなさるよう、命令じゃと仰せられましたが・・・・」
「もうよい」
彦次郎も呆れたようだったが、盛政もまた舌打ちしてわきを向いた。
「何ともかとも話しにならぬ・・・・よしッ。わし一人で明日は荒れ狂おう。もう行くには及ばぬ。呆れた頑固者じゃ、伯父上は」
と、そのとき、一度やんだ銃声が、また峰から谷へはげしいこだまを送り込んだ。
「どこの砦じゃ、見て来い、今の銃声は」
「ハッ」 近侍の一人が、あわてて幕の外へ走り出すと、つづいて、またダダダーンと同じ轟音ごうおん が暮色を裂いて聞こえて来る。
「はてな、今のは賎ケ岳のようだが・・・・」
原彦次郎が、小首をかしげて立ち上がった。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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