〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/14 (水) 賎 ヶ 岳 (九)

勝ち誇った佐久間勢は、このとき、賎ケ岳を包囲する陣形で一息入れていた。むろん野営である。
はちみね から大岩山、尾野路おのじ 山、庭戸浜にわとはま から賎ケ岳の西方堀切ほりきり 付近にわたって兵を配し、日が落ちると、それらの兵のたくかがり火が赤々とのぞまれた。
「妙なことになったな。空鉄砲の射ちあいだけでとりで を捨てるとは」
「いや、大将に何か思案があってのことであろう。とにかく、命令には従うことじゃ」
大将、桑山重晴の心を計りかねるままに西へ向けてのろのろと移動しだした桑山勢は、山路を湖岸に下ろうとしたところで、ふしぎなものを発見した。
葛籠つづら 尾崎おざきみぎわ めざして、続々と軍船がこちらへ近づいて来るのである。
すでに暮色は迫り、足もとはほの暗かった。しかし眼下の湖面は中天の余映を反映して灰白色に光っている。
旗印の識別はできなかったが、続いて来る船列から見て、それは西南の海津かいづ 方面からやって来るものと分った。
「申し上げんます。湖面におびただしい軍船が見えまするが」
さっそく注進が桑山重晴に知らせると、重晴は、あたふたと湖面の見える岩鼻に馬をのり出し、
「ふーむ、これは奇妙じゃ。奇妙な事があるものじゃ」
いかにも感に耐えた風情で、くるりとうしろを振り返った。あたりは暗くなりかけて、燃えている岩崎山と大岩山の砦の焔がはっきり見えだしている。
「あれは敵でござりましょうか、見方でござりましょうか」
「知れたこと、海津からやって来る丹羽長秀どのの援軍じゃ。こうなれば何も陣地を明け渡すには及ばぬ。さてさて羽柴どのはご運の強いお方じゃ」
「と仰せられると、当方より援軍を乞うてやりましたので」
「いいや、やる間がなかったのに出て来ている。それゆえ奇妙だと、ほとほと感心・・・・」
重晴の感心しているとおり、それはまことに不思議な偶然といってよかった。秀吉は万一の場合を思い、丹羽長秀をして敦賀街道の海津をおさえていたのだが、木ノ本の本陣を留守にするについて、長秀にその事を申し送ってあったのだ。
長秀は、今暁こんぎょう から佐久間勢が、いっせいに行動を起こした事など知ってはいなかった。
「── 筑前どのの留守に万一のことがあっては・・・・」
そう思い、朝から小姓馬廻りの者千余人を六そう の船に乗せ、琵琶湖上を見廻りながら出て来たのだ。
すると、彼の組下、桑山重晴の砦から、しきりに銃声がひびいて来る。
「これはただ事ではない。敵は賎k岳を攻撃している。よし、すぐに船を着けよ」
そう命じると、自分はそのまま上陸して、すぐに船を海津へ返し、主力の三分の二をここへ廻すように手配したのだ。
長秀が上陸したのは正午すぎ。そして今は、その主力が続々と湖上を渡って、賎ケ岳をめざして到着しだしていたのだ。
「みんな引き返せ、そして、こんどは実砲を射ち出すのじゃ。いや、まことにまことに奇妙な事があるもの」
重晴は小首をかしげて、一度捨てた砦の方へまたトコトコと馬を返した。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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