〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/13 (火) 賎 ヶ 岳 (八)

桑山重晴は、日の暮れるまでお互いに八百やお ちょう で戦をして、日が暮れたら逃げると言うのだ。
(なるほど、これは言い難かったに違いない)
使者の直江田又次郎は、思わずブーッと噴き出した。
「いかがでござろう、お取次ぎ、願われまいか」
「ハハハ・・・・これはまことに見上げた妙案。ご貴殿がそのお覚悟ならば、それがしは使者ゆえ取り次がねばなりますまい。したが、くれぐれも、日の暮れが刻限でござるぞ」
「それはもう充分に承知つかまつった。味方が勝ち味のないところゆえ、かようなところへ執着しゅうちゃく はつかまつらぬ」
「いや、あっぱれの大将じゃ。つくづくお見上げ申した!」
使者は重晴に刺すような皮肉を浴びせてまた笑った。
しかし、重晴はどこまでも生真面目だった。
「佐久間どのがご承知下されば、これ以上の喜びはござらぬ。お互いに、大切な扶持ふち まい を分かち与えて育てた家臣、みすみす負けると分っている戦いで、殺してしまうには勿体もったい ない。ではくれぐれもよろしゅう頼み入る」
直江田又次郎はバカバカしくもあり、ホッとみした。
「では、おん大将が承知されれば下から空砲でお合図いたそう。が、万が一、実砲がうな って飛来ひらい したらその時には、おん大将は不承知、遮二無二このお山を占領にかかったものと思わっしゃるがよい」
「なるほど、空砲ならばそてでよし、不承知ならば実砲を射って来る・・・・」
「おわかりでござるな。このお扱い、とにかくそれがしが引き受け申そう」
「いや、それで安堵あんど つかまつった。くれぐれも玄蕃どのにによろしゅう・・・・暮れ六つでござるな。それから当方は、湖水の岸へ引き揚げにかかりまするぞ」
二人の長い交渉はこれで終わった。
そして、直江田又次郎が、帰ってゆくと、間もなくふもと から盛んな煙を噴いて鉄砲が鳴りだし、上からもしきりに応射しだした。
聞くものが聞いたら、どちらも空砲とハッキリわかる射ちあいだったが、ときどき山頂で喊声かんせい があがったり、下からこれにこた えたりするので、他目よそめ には充分機をうかがっての対峙に見えた。
こうしてやがて、約束の日暮れがやって来た。湖水の向うに浮かんだ比良ひら の山脈を赤く染めて、しだいに暮色がひろがりだすと、桑山重晴はしぶしぶと腰をあげて、みんなに湖岸へ向けて山を下るように命じていった。
「まこと、このまま引き揚げるのでござりまするか」
「そうさ、そのことよ」
彼は味方にとっても がゆ いほどに悠長な口の利き方で、
「よいか、今朝木ノ本を発った注進が、正午に羽柴どのに追いつくとみるがよい。するとただちに引き返して・・・・」
言いながら指を繰って、
「これが普通の者なら、明日夕方・・・・だが相手は羽柴どのゆえ・・・・」
「それは何のことでござりまする?」
「何刻に援軍が到着するかということじゃ・・・・そうさのう、事によると夜明けごろに着くかも知れぬ。よし、なるべくのろのろと引き揚げよう。明日の朝になったらまた引き返すことになろう。あまり歩いてはくたびれもう けじゃ」
そう言って、わざとゆっくり、陣払いの支度にかかった。
下ではずっと山上の動きを見つめている。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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