〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/12 (月) 賎 ヶ 岳 (五)

「ワーッ」 とまた山の四方で喊声があがった。
「ほう、これはこれは」
小手をかざしたまま中川清秀は眼を細めた。ダダダーンと銃声が天地をゆすり、旗の波が大河の決潰けっかい したような勢いで、山頂をめざしている。
鯨波とき 大地にとどろき、狼煙のろし 天をかざ すか」
「は、何と仰せられました!?」
見張り台まで従って来ていた近侍が耳に手をあてて訊き返した。
「いや、何でもない。風の発するがごとく、河の決するがごとし。敵ながら天晴れな攻めぶりじゃ」
言いながら瀬兵衛清秀は、西に見える賎ケ岳に眼を移した。
ここでも山裾へ霧ならぬ砲煙が幾すじも棚曳たなび きだして、ときどき小鳥の群れが空に舞い立つ。
「なるほど桑山も攻められているわ。それにしては山頂の軍兵ぐんぴょう が妙にひっそりしているようだが・・・・」
こんどは北へ廻って岩崎山を望見した。
ここは山上の緑を縫ってしきりに旗差し物が動いている。
「ほう、高山右近、わざわざ敵中へ斬り込むらしいのう。いや、これは・・・・血路を開いて山を捨てる気かも知れぬぞ」
この清秀の観察は当たっていた。
高山右近は、このときすでに岩崎山の砦は守り難いと見てとって、一挙に敵中を突破して、木ノ本の羽柴秀長の本陣に兵を合わせようと計ったのである。
「よしっ、これで決まった!」
清秀は誰にともなく、二、三度うなずき、それから物見台を降りて行った。
「いまごろはのう、木ノ本の本陣から、秀吉どののもとへ早駆けの注進が飛んでいる。みなは一刻でも多く時をかせ げ。死ぬ者は死に急ぐな、降る者も、 げる者もなるべくその時を延ばせ。敵が砦へとりつくまでに撃ち尽くせ。さらば、冥府めいふ でまた会おうぞ」
そう言うと、打ち合わせてあった通り、すぐ山頂から、
「── 敵の重囲をうく、よって死守せん」
狼煙のろし 三度、高々と青空に打ち上げて、みずからは、敵正面の東口へはせ向かった。
このときには敵は、四、五丁の近さに近づき、味方からはバラバラと矢を射かけだしている。
「なだ遠いぞ、無駄な矢を射るな」
清秀は、柵門を出て馬を降りると、りゅうりゅうと槍をしごいて、それからぴたりとその場に立った。
これでもすでに六十近い。が、考えてみれば、よく今日まで、生き残ったものと思う。
山崎の合戦のおり、信長のあとを追って死ぬ気であったのが、秀吉の戦上手に助けられて生き残り、こんどは秀吉のために死ぬ身になった。
人生の変転が、何か妙におかしかった。いや、おかしいと豪胆ごうたん に首を傾げて笑い得るのも、実に、秀吉が、彼亡き後の家名を立派に立ててくれると信じているからかも知れない。
ドドドーッと、また足もとで砲煙の煙の渦が舞い立ち、耳もとをかすめて弾丸がうしろへ飛んだ。
清秀は微動もせずに近づく敵勢を睨んでいる。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next