〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/11 (日) 賎 ヶ 岳 (四)

佐久間玄蕃盛政は、行市山の陣地に戻ると、
「天はわれらに味方した。遅月が道を照らそう。明日はうし の刻 (午前二時) より行動を起こそうぞ」
と、みんなに れた。
新しく麾下に加えられた不破、徳山、原のほかに、弟安政の人数を加えると、盛政の軍勢は約一万五千。
勝家もまた盛政の行動を助けるために、同じ時刻に街道かいどう をやく一里南下して狐塚きつねづか まで本陣を進め、左禰さね 山にある堀秀政に備えることとなっていたし、前田利家父子も、別所山から約半里、明神山の西北四丁あまりの茂山に移って敵に備えることとなった。
それだけに丑の刻かっきり行市山を発する時、佐久間盛政は月を仰いで聞こえよがしに笑って言った。
「月神よ。今こそこの鬼佐久間が戦いぶりをご覧に入れよう。よく見ておざるがよい。そして、明夜は木ノ本の猿めが本陣で再び会おうぞ。それまで静に山路を照らし候え」
それから、くるりと馬首をみんなに向けて、
「勇めや者ども、明け六つ (午前六時) まではひづめ の音をしのばせて、大岩山の中川清秀、岩崎山の高山右近、賎ケ岳の桑山くわやま 重晴しげはる をおっ取り囲むのだ。そのうえで寝ぼけた敵を蹴散らし、昼食ちゅうじき は敵の本陣、木ノ本の陣屋できっととろうぞ」
軍扇をひらいてそう言うと、まっ先に南へ向かって馬をおどらせた。
本隊は行市山から峰伝いに大岩山へ迫り、一部は集福寺しゅうふくじ 坂から西に下り、塩津谷しおつだに迂廻うかい し、権現ごんげん 坂を東へ越えて余呉湖よごのうみ の西に出る。
さらに柴田勝家の一隊は、大岩山の西方に出て賎ケ岳の桑山重晴を圧迫する・・・・
盛政の言うとおり、隠密に行動してゆくうちは月光が山路を照らし、夜が明けかかると、ぞくぞくと湧き出た霧が柔らかく彼らの動きを包んでくれた。そして、いきなり山から谷、谷から山へ最初の銃声がとどろき渡った時には、すでに山頂に霧はなかった。
大岩山は中川清秀。
岩崎山は高山右近。
いちばん湖よりの賎ケ岳には桑山重晴。
いずれも一千あまりの手勢で守備しているところへ、いきなり大岩山のとりで をめがけて発砲し、つづいて天地へとどろく喊声かんせい であった。
まさに虚をつかれたのである。
といって、中川瀬兵衛清秀もまた、歴戦の猛将だった。
「急いで危急を岩崎山と、賎ケ岳に告げよ。敵は佐久間玄蕃に相違ない。力をあわ せて蹴散らそうぞ」
ただちに、鉄砲隊を動員して、まず応射せしめたのち、槍隊を真っ先にして、山裾の薄霧の中へ突撃せしめた。
っしかし、そのときには、三つの砦の横の連絡はとれなかった。注進の者が、やむなく途中で引き返して、その旨を中川清秀に告げていくと、瀬兵衛清秀は、みずから槍を取ってしごきながら、
「敵の数はどれほどぞ」
と、とぼけたような声で訊いた。
「はい、峰から谷・・・・どの山路も旗と兵でいっぱいでござりまする。おそらく二万以上かと・・・・」
「言うな。二万と見たら三分の一と思え。が、さて、おかしなところへ死所はあるものじゃの」
そうつぶやいて、ゆっくりと物見台に登って小手をかざした。山裾の霧もきれいに晴れている。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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