〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/09 (金) 吹 雪 の 城 (九)

権六郎は、お市の方の予期しているほどには驚かなかった。
(あの茶々姫ならば、言うであろう)
そう思えたし、その考え方に共感できるところもあった。
良人を想い子を想うて、迷いながら破局へ歩む女性の姿は哀しすぎる。
「それで、母上は、どう思案なされまする。今のうちならば、この勝久、仰せのように計らい得ると存じまするが」
お市の方は黙った。茶々姫の言葉の意味が分っただけでは、権六郎への答えにはならなかった。
権六郎は、父の決心が、
「── 筑前の下風には立てぬ」
はっきりそう決まったゆえ、雪解けを待って一戦する。
むろん勝敗は度外視して意地にじゅん ずると言っているのだ。
いや、勝家自身は意地に殉ずるが、お市母子にはそれは いない。強いては浅井長政に士道で劣ることになる。
「── それゆえ、ひとまず離別したいが」
そう言い出されているのであった。
お市の方は、うろうろと虚空をながめて、やがてそっと膝の両手に視線を落とした。
心のどこかで、小谷城の焼け落ちる日のほのお のはぜる音が聞こえる。ゴーッと渦巻く戦火の風音が、鼓膜こまく の底に鮮やかに浮いて来た。
あのときも、寄せ手の大将は秀吉だったが、こんどもまた秀吉が、彼女の前途に絶望の網をひろげて大きく立ちはだかっている。
(なんというおかしな筑前との悪縁であろうか)
しかもその筑前は、兄の信長に取り立てられ、信長の仇を討った人なのだ・・・・
くらくらと眩いがして、お市の方は思わず脇息きょうそくこぶし をのせ、それにもたれて眼を閉じた。
「母上、ご気分が悪いのでは」
「いいえ、何でもありませぬ。ただふっと。・・・・」
「苦しければ腰元を呼びましょう。ご思案が決まらなければ、一両日にまたうかごうてもよいのですから」
「いいえ」
額に拳をのせたまま、お市の方は首を振った。
「ただちょっと、昔・・・・あの小谷の城の近くの野にあった骸を思い浮かべたのです」
「むくろを・・・・」
「はい、そのむくろは、まっ黒になって動いていました。いいえ、動いていたと見えたのは、隙間すきま もなくむくろにとまったはえ でした」
権六郎は、義母の言葉の意味をとりかね、もう一度眉根を寄せてのぞき込んだ。
「今日は、ひとまず失礼いたしましょう」
「いいえ、よいのです」
お市の方は、一人になるのを怖れるように、
「人間は、みな一度、みにく いむくろになるのでした」
「それは・・・・たしかに」
「わらわが、この城を落ちたとしても・・・・」
「と、仰せられますると?」
「若殿!」
「はいッ」
「また同じような運命が待っているかも知れませぬ。それゆえ・・・・わらわは、わらわは、もはや、この城は、動きとうはござりませぬ」
「母上! では離別に、同意はできぬと仰せられまするか」
「は・・・・はい。三人の姫はとにかく、わらわは・・・・わらわだけは・・・・」
そう言うと、お市の方はきっと唇をかみしめて、両手で脇息にすがっていった。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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