権六郎は、お市の方の予期しているほどには驚かなかった。 (あの茶々姫ならば、言うであろう) そう思えたし、その考え方に共感できるところもあった。 良人を想い子を想うて、迷いながら破局へ歩む女性の姿は哀しすぎる。 「それで、母上は、どう思案なされまする。今のうちならば、この勝久、仰せのように計らい得ると存じまするが」 お市の方は黙った。茶々姫の言葉の意味が分っただけでは、権六郎への答えにはならなかった。 権六郎は、父の決心が、 「──
筑前の下風には立てぬ」 はっきりそう決まったゆえ、雪解けを待って一戦する。 むろん勝敗は度外視して意地に殉
ずると言っているのだ。 いや、勝家自身は意地に殉ずるが、お市母子にはそれは強
いない。強いては浅井長政に士道で劣ることになる。 「── それゆえ、ひとまず離別したいが」 そう言い出されているのであった。 お市の方は、うろうろと虚空をながめて、やがてそっと膝の両手に視線を落とした。 心のどこかで、小谷城の焼け落ちる日の焔
のはぜる音が聞こえる。ゴーッと渦巻く戦火の風音が、鼓膜
の底に鮮やかに浮いて来た。 あのときも、寄せ手の大将は秀吉だったが、こんどもまた秀吉が、彼女の前途に絶望の網をひろげて大きく立ちはだかっている。 (なんというおかしな筑前との悪縁であろうか) しかもその筑前は、兄の信長に取り立てられ、信長の仇を討った人なのだ・・・・ くらくらと眩いがして、お市の方は思わず脇息
に拳 をのせ、それにもたれて眼を閉じた。 「母上、ご気分が悪いのでは」 「いいえ、何でもありませぬ。ただふっと。・・・・」 「苦しければ腰元を呼びましょう。ご思案が決まらなければ、一両日にまたうかごうてもよいのですから」 「いいえ」 額に拳をのせたまま、お市の方は首を振った。 「ただちょっと、昔・・・・あの小谷の城の近くの野にあった骸を思い浮かべたのです」 「むくろを・・・・」 「はい、そのむくろは、まっ黒になって動いていました。いいえ、動いていたと見えたのは、隙間
もなくむくろにとまった蠅
でした」 権六郎は、義母の言葉の意味をとりかね、もう一度眉根を寄せてのぞき込んだ。 「今日は、ひとまず失礼いたしましょう」 「いいえ、よいのです」 お市の方は、一人になるのを怖れるように、 「人間は、みな一度、醜
いむくろになるのでした」 「それは・・・・たしかに」 「わらわが、この城を落ちたとしても・・・・」 「と、仰せられますると?」 「若殿!」 「はいッ」 「また同じような運命が待っているかも知れませぬ。それゆえ・・・・わらわは、わらわは、もはや、この城は、動きとうはござりませぬ」 「母上!
では離別に、同意はできぬと仰せられまするか」 「は・・・・はい。三人の姫はとにかく、わらわは・・・・わらわだけは・・・・」 そう言うと、お市の方はきっと唇をかみしめて、両手で脇息にすがっていった。
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