勝兵衛が走り寄って抱き起こしたとき、光秀はまだ、わずかに意識を残していた。 「殿!」
と、呼ぶと、微かにうなずき、眼を開こうと努めているのが暗さの中で感じ取れた。 片手で左の脇腹をおさえ、片手を宙で、こまかくけいれんさせているのを、 「介錯
せよ・・・・」 と、いう意味と、勝兵衛は受け取った。 が、光秀は全く別のことを訴えようとしていた。 ほかでもないただ一語、それは、 「──
わしは疲れた」 そう言いたかったのだ。 そう言えば、光秀の一生は、寸時も心の休まる時のない緊
しく張り詰めた一生だった。小心で綿密で、つねに内心の不平を圧
えながら、営々と小石を積み上げて、それの崩れる時ばかりを怖れつづけた一生だった。 しかも、そのいちばん怖れていた崩壊は、彼が最大の決断をもって信長を討った刹那
に芽生えていたのだ。 むろんそれ以前も、絶えず心労はつづけていたが、ここ十三日の艱難
に比べると、ものの数ではなかった。 すべてが誤算であったとは、考えられなかったが、少なくとも自分の性格と力だけは過信しすぎた。 彼の場合秀吉とは反対だっに、一つの知識、一つの教養が力とならず、歓びとならず、かえって心労と不平のもとになった。 「ここは・・・・ここは・・・・」 光秀の唇がかすかに動いた。 「ここは、宇治郡醍醐
村の小粟栖あたりにござりまする」 「美濃の・・・・明智の里に生まれ・・・・山城の小粟栖の露と消ゆるか・・・・」 「殿! 傷は浅うござりまする」 「いや・・・・」 「村越は、村越はいずれにいったものやら」 勝兵衛がつぶやいたとき、うしろからも前からも、まらワーッと人声がわきあがったが、光秀の耳にはもう入らなかった。 光秀の馬が不意に早足になったとき、あのときすでに彼は左の暗やみから、竹槍の一突きを喰っていたものらしい。 それを無言で駆け抜けて、このあたりまで来てホッと一息入れたところを再び土民にやられて落馬したのであろう。 とにかく馬をその場につなぎ、勝兵衛が傷あとを調べてみると、左のわき腹と、腰のうしろを二ヶ所突かれている。 「殿!
しっかりなされませ、傷は・・・・」 白布で胴をくくりあげ、再び声をかけて、 「ヤ、ヤ・・・・」 と、勝兵衛はうしろへのぞけった。 すでにこと切れている。間が闇になれたのか、またあたりが明るくなったのか、蒼白の光秀の顔は、もはや空しい死面であった。 「ワーッ」
とまたうしろで襲撃者の声が聞こえた。 勝兵衛はあわてて屍体を道わきへ引きずってこわれかけている竹垣にもたせかけた。 「・・・・介錯せよと仰せられまするか。そしてお亡がらは人目のふれぬよう・・・・」 自分の考えを口にして、 「ハハッ、仰せのとおりに」 一礼するとパッと太刀を右肩に構えて立てた。 一瞬あたりはソーンとなり、竹の葉末をこぼれる露の音が心にとおった。
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