しかし、勝兵衛にはそれを読む余裕は今はなかった。このころから四囲の竹叢一帯が、あやしくざわめき出したのだ。 それにしても、順逆二門なしという偈
は悲しい。それは光秀自身が、どのように主君信長を討った事にとらわれていたかという証拠であった。 しかもそのとらわれきった心がその後の作戦を遅れさせた。まず勅使にこだわり、京の市民の人気にこだわって、いよいよ秀吉に名を成さしめる原因を作っていった。 勝兵衛が、偈をわがふところへ納めた時に、黒い影が二つ、うしろから走りよって来た。 「誰だッ」 「おう溝尾どのか、進士作左衛門と比田帯刀」 言いながら二人は光秀の死骸につまずきかけ、 「あ、これは」
と、その場へ膝をついた。 二人とも、すでに深傷
を負っているらしい。 「ご最期かッ」 絞り出すようにつぶやく作左衛門に、 「首級はこれに」 と、勝兵衛が、首の包みを近づけると、あわてて作左衛門は手を振った。 「寸時も早く、首級なりと坂本へ」 「あとは引き受けた。いや、われらはここで殉死と決めた。溝尾どの、急がれよ」 帯刀は首のない死屍
を抱きあげ、 「ご武運つたなく・・・・かほどの名将・・・・」 あとは言葉にならず泣き伏した。 「いたぞいたぞ」 と、うしろから襲撃者の声がする。 もう落人とみて、剽盗に早変わりした土民の数はふえるばかりであった。 つねには歯の立たぬ権力者に、彼らのなし得る唯一の復讐がこの落人狩なのだ。 「あ、馬をめっけた!名ある大将じゃぞ」 「よい太刀を拾えや」 「具足を剥げや」 そのわめきの間を、帯刀は屍体を彼らに渡すまいとして、人声の少ない藪の中に抱き込み、進士作左衛門は片膝ついたまま刀を構えてこれを掩護
した。 すでに首を抱いた溝尾勝兵衛は、馬を煽ってこの場から消えている。 築く時の営々とした長さに引きかえ、崩壊するときの人生のもろさはまた何という悲惨な瞬時であろうか・・・・ ──
やがて この不運な一夜が明けそめてみると、光秀の骸
は、藪の中の小溝に、足をさかさまにて立てて半ば埋められてあり、道辺には、裸にむかれた屍体が、どれが進士作左衛門やら、どれが比田帯刀やら見分けもつかぬ惨めさで泥にまみれて散乱していた。 しかしそうした人間世界の出来事にはかかわりなく、朝の藪では数群の雀どもが元気なさえずりで移動をはじめている。 その日は空の半ば青かった。
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