〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/28 (日) 戻 り 梅 雨 (十)

一番案じた久我畷から伏見への道は無事に通れた。
同じこの道を、今朝は、どうして勝とうかとあれこれ考えて進んだのに、今は、どうかして、無事に坂本城へ辿り着きたいものと、わが体力だけを案じている。
「このあたりはごこであろうか」
うしろの進士作左衛門をかえりみると、
「間もなく、大亀谷おおかめだに にござるまする」
「ふーむ、遠いのう坂本は」
「これより桃山北方の鞍部あんぶ を東南に越え、 栗栖ぐるす から、勧修寺かんじゅうじ大津おおつ と夜のうちに、大津まで着きたいものでござりまする」
「大津か・・・・」
光秀はそう言ったなりふっつりと黙り込んだ。
今は無駄な一語も体力保持のために節そうとしている光秀であった。
桃山の北までまた雨はバラついた。
そのたびに地上は暗くなり、ともすれば前を進む道案内の二騎が見えなくなった。
が、小栗栖の近くにかかると雨はやみ、あわただしく北へ走る雲が見えだした。
「これは思うたより事なく進めまする。まだご武運の尽きぬ印でございましょう」
進士作左衛門がそう言った時、急にうしろで人馬のひびきが聞こえて来た。
(これは追手おって か・・・・)
思わず二人は駒をかたわらの木蔭にひそめて様子をうかがった。
しかし、これは追手ではなく、あとを三宅藤兵衛に任せてやって来た比田帯刀とその従者四、五人であった。
「殿・・・・殿・・・・比田帯刀どのが追いつきました。これで安心でござりまする」
油断なくうしろを警戒していた堀尾与次郎が駒を駆って来て光秀に告げた。
「なに帯刀が追いついたと」
「はい・・・・」
黒い影が光秀に近づいて、
「いさ、進みながら・・・・」 と、駒を並べた。
このあたりは里に近く、辛うじて二人が並んで歩ける赤土道であった。
「この際、一兵にでも多く、坂本城へお伴いあれと三宅藤兵衛が申しまするゆえ、約百人近くで勝竜寺を出立しましたが、途中、夜間にまぎれて、一人消え失せ、二人消え失せ・・・・」
「帯刀、もうよい」
と、光秀は言った。
「散る者は散るがよいのじゃ。後にはまごころある者どものみが残ってゆく。その方が人目にかからず、落人おちうど の身にはかえって好都合じゃ」
「落人・・・・」
勝竜寺の城を出るときには、まだ光秀はその言葉を嫌っていたが、今では自分から落人・・・・と言い出した。
ふと、胸に悲しいものがこみ上げて、帯刀は並んだ馬をうしろへまわした。
と、そのとき、どこかでカサカサと藪が鳴った。
気がつくと道の両側とも、うっそうと繁った竹林になっている。
(今のあの音は何であろうか・・・・?)
それまでの道中が比較的安全だったので、帯刀はそれが叢林そうりん の中の人の動きとは気がつかなかった。
竹林はずっと続いている。
前を行く溝尾勝兵衛が駒をとめた。
「おかしい、とこどき竹薮で妙な音が・・・・」
近づいて光秀にそう言いかけたとき、いきなり光秀の乗馬がドドドドッと早足になっていった。

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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