〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/27 (土) 戻 り 梅 雨 (七)

光秀は、筒井順慶が胴ケ峠へ出て来ただけで、秀吉勢はうかつに動けなくなったと判断した。
ところが秀吉の出方は逆であった。
筒井勢の日和ひより は万々承知の上で、さっさと動いてきたのである。
日和見ゆえに、決して背後は衝きはせぬ。動くものかあの打算家が。もし動く時があれば、すでに勝敗が決し、勝った方から連絡のあったときだ・・・・そう判断して光秀の虚を衝いたのに違いない。
いや、それだけではなくて、光秀が天王山に執着して川手の備えをぬかることまで、秀吉はすっかり見抜いていたように思われる。
「ワーッ」
と、また喚声と悲鳴の混じった叫びが左手に散ってゆく。
おそらく、加藤光泰と池田信輝の敵方川手隊が、勢いに乗じて、斎藤、阿閉、御牧みまき の諸隊のうしろへ廻ったので、中央の高山右近と、堀秀政も一挙に総攻撃をはじめたのに違いない。
そして、その背後では秀吉めが、あの精悍せいかん な猿面を紅潮させて、
「── 右府のご無念を晴らすは今ぞ。逆賊光秀をのがなッ」
自慢の大声で指揮しているのであろう。その得意な姿が、まざまざと光秀の眼にうかんだ。
「まだいたのか」
しばらくして、光秀は、注進の者が、足もとからぼんやりと自分を見上げているのに気づいた。
「行け・・・・分ったゆえ行け・・・・いや、すででに与三郎が隊はなくなっているかも知れぬ。そうじゃ、勝竜寺へ退って立てこもれ」
「はッ」
注進の者が引き下がると、入れ違いに、
「おん大将はいずれ・・・・おん大将はいずれにおわすぞ・・・・」
高く呼ばわりながら近づいて来る者がある。
すでにあたりは暗くなって、三、四間離れると顔の見分けがつかなかった。
「その声は、御牧三左衛門か」
「おう殿におわしましたか。殿! 敵は円明寺川を渡りました・・・・」
斎藤利三とともに、中央へ二千の軍勢を率いて備えていた御牧三左衛門が、このような所へ姿を現すのでは、もう完全に中央軍も潰滅かいめつ しかけた証拠であった。
「三左、戦は決まったな」
「無念! 敵方川手勢にしてやられましてござりまする。さ、おん大将には少しも早く勝竜寺の城へ」
「三左ッ!」
「はっ」
「わしは勝竜寺の城へは入らぬぞ。重ねて言うな」
「これはしたり、この御牧兼顕かねあき 、残兵二百余騎を引き連れて駆けつけたは、おん大将を無事に城へお送り申さんため、近づけませぬ! 敵は、一兵たりともおん大将のお側に・・・・さ、急がれませ」
「ならぬ」
「さようなことを・・・・殿に似合わず・・・・」
「ならぬ」
光秀は同じことを繰り返して首を振った。
「この光秀は恥を知る者。猿に負けた! あの猿になあ」
光秀はそう言うと声を立てて笑った。笑ったつもりで泣いている・・・・自分でそれをハッキリと感じながら・・・・

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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