〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/26 (金) 戻 り 梅 雨 (五)

(これはいかん)
と光秀は自分を叱った。注進の来るたびに不吉を連想するのでは臆していたことになる。
数の上では圧倒的に敵が多いが、質では決して劣っていない。
「津田与三郎が注進、これへ通せ」
意識して胸をそらせ、それから手に残っている粽を、そのまま頬張って顔をしかめた。
笹の端が粽の肌に細く残っていたらしい。咽喉にからみそうになって、あわてて掌の上に吐き出した。
「申し上げます」
「おう、川筋の敵、池田勢が動き出したというのか」
おmmどの注進はどこかで田の中によろめき込んだと見えて、草摺りの上まで泥をつけている。
「いいえ、池田勢は対峙のまま、まだ主将秀吉の到着を待っている模様もよう にござりまするが、川向こうの胴ケ峠に立ち並びました旗差し物は、たしかに大和の筒井順慶と覚えたゆえ、この旨おん大将にご注進申せとの仰せ・・・・」
「なに、筒井順慶がやって来たと!?」
光秀は思わず床几から身をのり出して、
「そうか、筒井が来てくれたか」
と頬を崩した。
「べつに当方から、出撃をうながすにも当たるまい。ただ来ているだけで充分敵の牽制けんせい にはなる。が、万一筒井に怪しい動きがあったらさっそく注進あるよう津田に告げてくれ」
「委細、心得ました」
注進が去って行くと、光秀はもう一度声を立てずに相好そうごう を崩していった。
順慶の心は、いまでは手に取るように分っている光秀だった。洞ケ峠に陣取って、大和への乱入を防ぎながら、ずるく両軍の旗色を見比べてゆく気であろう。
が、光秀はそれで充分だと思った。
光秀にさえ薄気味悪い順慶は、秀吉にとってはさらにいっそう油断のならなぬ存在だった。
(これで、川手筋に陣取った池田勢は、うかつに動けぬことになったぞ・・・・)
「これ、誰かある。まだ天王山の方面に銃声が聞こえぬ。松田が隊に急げと申せ」
「はっ」
それから、天王山を手に入れた後、この光秀も宝寺の境内まで本陣を勧めよう。旗下衆に伝えておけ」
円明寺川を越えて、そこまで行く気はなかったが、ここでぐっと士気をふるい立たせておくべきだと思ったのだ。
それからまた一刻あまり・・・・雨のために山路の行動は思うに任せぬと見え、正面前線に銃声のとどろき出したのは正七ツ (午後四時) ごろだった。
「おお、聞こえてきたぞ」
光秀は床几を立って仮の屋のひさしから身をのり出した。
いつか雨は止んでいる。火縄の点火に支障はない、と思われたし、早くから勝竜寺の城にあった松田太郎左衛門は、このあたりの地形は掌を指すように調べ上げている。味方から仕掛ける機会を掴んだ事は勝利の機会を掴んだことだと光秀は思った。
(中川瀬兵衛も、あわてだしているであろう)
ふと清秀の頑固な気性を思い浮かべた時、今度は中央の正面で、百雷の落ちかかるような銃声だった。
味方だけの発砲ではない。秀吉方の高山、堀と味方の斎藤利三、御牧三左衛門、阿閉貞征など、満を持していた両軍が期せずしていっせいに火蓋ひぶた を切った証拠であった。

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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