〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/26 (金) 戻 り 梅 雨 (四)

光秀は勝竜寺の城へは二度とは入るまいと心の決めていた。
彼とて決して凡将ではない。
充分熟慮を重ねたうえ、御坊塚に陣を進めるからは、ここが秀吉と自分の運命の決してゆく場と、きびしく見通してのことであった。
それなのに、彼が右腕と頼む斉藤利三までが、決戦を避けて坂本城へ退けとは・・・・
「利三に申せ。予はな、今朝、下鳥羽で、京から礼物をだずさえて参った町人どもに、敵は一兵たりとも都には入れぬゆえ、安堵せよと堅く誓って出て来たのだと」
「口上、そのままお伝え申しまする。が、まだ当方にも・・・・」
「何じゃ。早く言え!」
「ここでは、お館に代わって、われらが主人、充分に明智が精鋭の威力を示しますれば、お館にはひとまず坂本の城にお引取りくだされまするよう、その方が、かえってこの場では駆け引きの妙かと・・・・」
「ほほう、これは聞き捨てならぬ。この光秀がいたのでは足手まといになると申すのかッ」
そこまで言って、光秀はさすがにハッと反省した。
(これは使いの者なのだ・・・・)
使いの者を叱ったとて、心の動揺を見抜かれ、士気にさわ るだけのこと。
「ハハハハハ、いや、利三が口上、よく分った。いつに変わらぬ彼が気魄、堅く心に刻んでおこう。が、光秀も考えるところあって最前線へ出て来たのじゃ。総軍の指揮は自身でとる。斎藤勢は柴田、阿閉あべ が勢とよく連絡を取り、松田、並河の両隊が天王山へかかっていったら、ただちに円明寺川を押し渡って敵の中央を衝けと申せ」
「はッ」
「よいか。山手の隊が山上を確保したら、この光秀も陣頭に立って押し出すぞ」
「そのむね 、しかとわれらが主人に伝えまする」
「よし、ゆけッ」
そう言ってから光秀はまた使いの者を呼びとめた。
「いかに光秀が陣頭に立てばとて、山手の隊が敵に仕掛けてゆくまでははや るまいぞ。仕掛ける時は一緒、それまでは敵の動きを監視して、くてぐれも自重が肝要じゃと、よく伝えよ」
「はッ天王山に挑むまで、くれぐれも仕掛けてはならぬと伝えまする」
使いの者が去ってゆくと、光秀はホッと吐息して、
「礼の者が持参したちまき・・・ を持て。腹が空いては働けまい」
と、近侍に言った。
近侍は心得て、京の町人たちが下鳥羽まで持参して来たちまき を盆にのせて持って来た。
光秀はその一つを取って青い笹をむき、一口食べて、何となく五十五歳の年齢を感じた。
分別知識では、秀吉などにひけを取らぬ光秀も、野戦を馳駆ちく するには、年を取りすぎた・・・・
すでに空腹と食欲とは別になっている。
(バカな婿どもめが・・・・)
光秀は改めて細川忠興と筒井定次の二人の婿に腹が立った。
彼らが陣頭に立って戦っていてくれたら、光秀は、彼らのために、天下のおきて と領国の配分など、あれこれ考えていてやれたのに・・・・
「申し上げます。川手の津田与三郎さまのもとから注進でござります」
けたたましい近時の声がまたしてもギクリと光秀の胸をえぐった。

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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