光秀は勝竜寺の城へは二度とは入るまいと心の決めていた。 彼とて決して凡将ではない。 充分熟慮を重ねたうえ、御坊塚に陣を進めるからは、ここが秀吉と自分の運命の決してゆく場と、きびしく見通してのことであった。 それなのに、彼が右腕と頼む斉藤利三までが、決戦を避けて坂本城へ退けとは・・・・ 「利三に申せ。予はな、今朝、下鳥羽で、京から礼物をだずさえて参った町人どもに、敵は一兵たりとも都には入れぬゆえ、安堵せよと堅く誓って出て来たのだと」 「口上、そのままお伝え申しまする。が、まだ当方にも・・・・」 「何じゃ。早く言え!」 「ここでは、お館に代わって、われらが主人、充分に明智が精鋭の威力を示しますれば、お館にはひとまず坂本の城にお引取りくだされまするよう、その方が、かえってこの場では駆け引きの妙かと・・・・」 「ほほう、これは聞き捨てならぬ。この光秀がいたのでは足手まといになると申すのかッ」 そこまで言って、光秀はさすがにハッと反省した。 (これは使いの者なのだ・・・・) 使いの者を叱ったとて、心の動揺を見抜かれ、士気に障
るだけのこと。 「ハハハハハ、いや、利三が口上、よく分った。いつに変わらぬ彼が気魄、堅く心に刻んでおこう。が、光秀も考えるところあって最前線へ出て来たのじゃ。総軍の指揮は自身でとる。斎藤勢は柴田、阿閉
が勢とよく連絡を取り、松田、並河の両隊が天王山へかかっていったら、ただちに円明寺川を押し渡って敵の中央を衝けと申せ」 「はッ」 「よいか。山手の隊が山上を確保したら、この光秀も陣頭に立って押し出すぞ」 「その旨
、しかとわれらが主人に伝えまする」 「よし、ゆけッ」 そう言ってから光秀はまた使いの者を呼びとめた。 「いかに光秀が陣頭に立てばとて、山手の隊が敵に仕掛けてゆくまでは逸
るまいぞ。仕掛ける時は一緒、それまでは敵の動きを監視して、くてぐれも自重が肝要じゃと、よく伝えよ」 「はッ天王山に挑むまで、くれぐれも仕掛けてはならぬと伝えまする」 使いの者が去ってゆくと、光秀はホッと吐息して、 「礼の者が持参したちまき
を持て。腹が空いては働けまい」 と、近侍に言った。 近侍は心得て、京の町人たちが下鳥羽まで持参して来た粽
を盆にのせて持って来た。 光秀はその一つを取って青い笹をむき、一口食べて、何となく五十五歳の年齢を感じた。 分別知識では、秀吉などにひけを取らぬ光秀も、野戦を馳駆
するには、年を取りすぎた・・・・ すでに空腹と食欲とは別になっている。 (バカな婿どもめが・・・・) 光秀は改めて細川忠興と筒井定次の二人の婿に腹が立った。 彼らが陣頭に立って戦っていてくれたら、光秀は、彼らのために、天下の掟
と領国の配分など、あれこれ考えていてやれたのに・・・・ 「申し上げます。川手の津田与三郎さまのもとから注進でござります」 けたたましい近時の声がまたしてもギクリと光秀の胸をえぐった。
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