天王山は、別名をたから寺の山とも呼び、高さは約九百尺、全山に松が多く、そのすそを淀川べりの近くへ曳いて、川と山との間に山崎の隘路をつくっている。 したがって、この山を先ず占拠しておいて山上から、山崎街道を進撃してくる敵に鉄砲を打ちかけることが戦術としての定石だった。 それゆえ、光秀も昨十二日、至急占領しておくよう、鉄砲隊主力の松田太郎左衛門に命じて行動を起こさせたのだが、そのときはすでに手遅れだったらしい。 高山右近長房と功を競った中川瀬兵衛清秀が、夜に入って遮二無二ここへ進出して来てしまったという・・・・ (その攻防戦で、どれだけ味方は傷ついたか・・・・?) 光秀は、自分よりも八ツ年下の四十七歳の秀吉を、戦上手の幸福児・・・・そんな風には思っていたが、天下の取れる器などとは考えてみた事もなかった。 ところが、今ここで光秀が敗退すると、尾張中村の一百姓の小倅は、充分に光秀に取って代わり得るのである。 八日に勅使を迎えて、十三日に潰
え去る。 僅々
四日間の天下人・・・・そんな皮肉な事実が史上に残るやも計られぬ・・・・ふとその不吉な連想が胸をかすめたとき、溝尾勝兵衛がまた馬首を並べて来て声をかけた。 「いったん勝竜寺の城へ入らせられまするか」 「なにッ」
光秀ははげしい語気で勝兵衛を睨み返した。 「そのような時機ではないッ。松田太郎左衛門がもとへ伝令を飛ばしておけ、光秀、御坊塚に進出して一歩も退かず、汝
はただちに天王山を奪い返せと」 勝兵衛は、険しい光秀の表情を見ると、そのまま濡れた具足を鳴らして先頭へ駆け去った。 勝竜寺城はすでに一行の左手にあり、そこにこもっている兵の姿までハッキリ見える位置であった。 相変わらず雨は振り続き道そのものが泥濘
に変わって、両側の田は湖水のようにふくれあがっている。 その水田の尽きたところに、御坊塚の緑がひとむらの叢丘
をなして重なりあっていた。 御坊塚から天王山までは二十余丁。 両者を隔てる円明寺川は一条あったが、この二十余丁の間に、今こそ天下が賭けられている。 光秀は、いぜんとして険しい眼を前方へ据えたまま馬を進める。 勝竜寺の右側を過ぎたところで、前方の大山崎に陣取っている斉藤利三のもとから使い番がやって来た。 「申し上げまする」 光秀はドキリと胸の波打つのを覚え、 「何事じゃ、あわただしく」 馬を停めずに、そのまま塚に設けられた仮屋の叢
うちに入っていった。 (よい知らせではない・・・・) そんな気がしきりにして、みんなの前で聞くのがはばかられたからであった。 「申し上げます」 使い番は烏帽子
からしたたる雨を払おうともせず、光秀が仮屋の床几に腰をおろすと、また追いすがるように言った 「聞こう、何事じゃ」 「殿には、早々に、坂本の城へ入らせまするようにと、われらが主人、斉藤利三が口上にござりまする」 「なにッ!
わしに近江へ引きあげよと・・・・」 光秀の額へ嚇怒
の血管がうきあがった。 |