両軍の前哨戦は十三日の早暁から秀吉の高山、中川りょうぜいの両勢の猛進撃によって開始された。 一番手の高山右近が京への隘路
山崎の町へ入って、その関門を占領したので、競い立った中川清秀は、 「── 高山の後方には陣は取れぬ」 一徹な武者気質をむき出しにして、夜の明け切った時には山崎の左先方、天王山を遮二無二占拠してしまっていた。 むろん両軍の間には、そこここではげしい乱戦がくり返されたが、この山崎と天王山を敵に先取されたと聞くと、光秀はしばらく床几によじってじっと考え込んでしまった。 十三日は、梅雨があがっていたのが、再び夜明けから戻りづゆとなり、さだきなにうとおしい下
鳥羽 の本陣は蒸し風呂に入ったような暑さであった。 「よし、いよいよわしも前線に出ねばなるまい。すぐに勝竜寺城の前方、御坊塚
まで本隊を繰り出すように」 光秀はそう命じてホッと首筋の汗をぬぐって吐息した。 今まで、決して自分が戦術の上で秀吉に劣っていると思ったことはなかった。が、こんどという今度は、互いに鎬
を削り合おうとしてみて、事毎ごとに彼に出し抜かれた。 中国から引きあげて、十一日には尼ケ崎へ。十二日には富田
、十三日には山崎という、考えてもみなかった急速な進撃ぶりは、光秀の布石をすっかりバラバラに掻き乱してしまったのだ。 光秀は八日に安土を発して坂本城に戻り、九日には公卿衆の出迎えを受けて京都に入った。 そして、銀五百枚を禁中へ献じたり、五山や大徳寺へ百枚ずつ、勅使として安土へやって来た吉田兼見
に五十枚と、いかにも光秀らしい慎重さで献金褒章をやっているころには、まだ秀吉は、当分中国を離れ得ないものと踏んでいた。 ところが翌十日になって京都を発し、山城八幡
の近くの洞 ケ峠
に着陣してみると、当然自分に味方して大和からやって来るものと思っていた筒井順慶は来ないで、十一日の朝には秀吉が尼ケ崎に着いたという逆の知らせを受け取ったのだ・・・・ そうなってはこんなところへの布陣は全然意味をなさなくなる。 そこで十一日には再びこの下鳥羽へ陣を返し、改めて全軍の配備にかかった。もはや勝竜寺と八幡を結ぶ線で、山崎の隘路をやくして決戦を挑む余裕はなく、すでに、どうして、どこで、秀吉の京都侵入を防ぐかという問題に変わってしまっていた。 彼が今朝までここに、重苦しい沈黙を続けて前進を控えていたのも、実は、近江からの援軍の到着を待っていたのである。 ところがその援軍よりも先に、またしても天王山まで中川清秀が進出して来たという。こうなっては、何をおいても御坊塚まで陣を進め、川向こうの淀城と勝竜寺の線で敵を喰い止めなければならなかた。 もしそれをなし得なかったら、おそらく光秀は、秀吉と比較にならぬ凡将と評され、後々までも笑いを招くに違いない。 「用意が整いました」 「よしッ」 光秀は床几を立って外へ出ると淫々とふりそそぐ雨空を見上げ、その奥から立ち止まって戦う足場を持ち得ない、味方将士の怨言が遠く近く聞こえて来そうな気がして胸がつまった。
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