奥へは火が放たれたのに違いない。焔のあおりが三度大きく障子にうつると、やがてその中央kらチロリと赤い舌が出た。 いや、赤い舌が出たと思った瞬間には濛々
とした黒煙が、戸の隙間からも天井からも床下からも洩れ出していた。 それが見えるというのはせすでにあたりがほのぼのと明けそめているゆえんであった。 たぶんパチパチと火のはぜる音もしているに違いない。しかし、その音はもう濃御前の耳には聞こえなかった。 ただ蘭丸と作兵衛のわたり合っている間に、信長が充分に自害できるであろうと言うことと、首級を敵に渡すまいとして火を放ったのだというこtだけはハッキリわかった。 そう言えば蘭丸を倒した作兵衛は、あわてて起き上がると股の傷のあとをしっかとしばり、そのまま煙の中へ駆け込もうとしてたじろいだ。 パッと障子がいちどに焔になり、その向うはもはや踏み込みようもない火の海だった。 それでも作兵衛は二度、三度と煙を避け焔を斬っては踏み込もうとしてあせっていある。 それが、ご膳にはひどく滑稽なものに見えた。幼い日に稲葉山の城下で見た傀儡
師 の人形を思い出させた。 そう言えば人間すべてが、何者かにあやつられて、はかない踊りを踊り続けてゆく人形だったという気もする。 (そのくせ、どこまでも生きて踊りたいのはなぜであろう?) 御前は、今でもまだ死にたいとは思っていない自分をさぐろあてると、急にひどくあわてだした。 信長が焔の中で号泣しているような気がして来たのだ。 「──
生きたい! もうしばらく生きたい!」 「── もう二年だけ! そうしたら必ず日本を平定してにせてやる! いや、二年が無理ならば一年でもよい、一年が無理ならば一月でもよい。一月あれば、おれは中国を平定できる男なのだ。いや、一月が無理ならばあと十日、五日、三日、ああ・・・・」 それは信長の声ではなくて、御前の胸奥の震えであったが、御前はどこまでも信長の声だと思った。 家の中では安田作兵衛がついに焔に追われて、信長の首への執着を捨てたらしい。滑稽な踊りをやめて彼は赤鬼のような表情で、倒れ付している蘭丸に近づいた。 「蘭丸!」 と、言って彼は左足で屍体を蹴ろうとして、傷の痛みに顔をしかめてそれをやめた。 「うぬは、ついに、この作兵衛に右大将の首を取らせなかった。天晴
れな・・・・憎い奴だうぬは」 そう言うと、作兵衛は血刀をくわえて蘭丸の死骸を柱のそばまでひきずり、そこへ無理に立てかけた。 信長の首を取れなかった忌々しさを、蘭丸の首でいやすともりなのであろう。 聴覚のなくなった御前の眼にうつる、この無言の世界の動作は、もろもろの音響の中で行われる殺戮
とは比較にならぬむごさであり無情さであった。 (そうだ、蘭丸は十八歳で、哀しい人間の踊りを踊りおわっていったのだ・・・・) 御前は蘭丸の唇をかんでこときれている前髪立ちの首の討たれるのを見るにしのびず、そっと首を左へ向けようとして、すでに自分にその力もなくなりかけているのに気づいた。 |