やや左向きに、傷ついた体を地面に伏せて倒れていたので、御前の血は傷口からすっかり大地へ吸いとられてしまったらしい。 それなのに、まだ眼だけが生きているのはなぜであろうか? あるいは再び生まれて来ることのない現世を、どこまでも見きわめようとする執着がそうさせたのかも知れない。 手にも足にも感覚はなかった。 御前は無理に首を右へ起こして倒していった。 (殿の焼けてゆくも、人間の哀れな踊りもみんな見た。このうえ首のない蘭丸の屍体など見とうはない) 御前は首をめぐらしてはじめて、あたりが水色の夜明けを迎えているのに気がついた。 すでに頭上の星は消えていた。透明な磁器の表面に似た空を、南西の風につれて時々まっ黒な煙がうずまきながら流れてゆくのがよく見えた。御前は、ふっと豪華な安土城の七層の天守を想い出していた。 おまこの本能寺の伽藍
を焼いた業火が、そのまま安土へ流れていって、あの華麗な天守閣をひと舐
めにしてしまいそうな気がしきりにする。 人も、そして、人々の造った様々なものも、いつかがすべて 「無」 にしてしまう。誰がするのか分らなかったが、しょせんそれらの一切
はふしぎな傀儡 師
の糸の先にあったのだ・・・・ もう蘭丸はあの利発で端麗な首を作兵衛に渡してしまったのに違いない。 いや、それは作兵衛がとったのではなくて、やがて作兵衛にも光秀にも、同じ想いを、思い知らしてやろうとしている意地悪い傀儡師の仕業に違いなかった。 その冷たくきびしい
「事実」 を、御前はすでに知り得たし、信長も、蘭丸もこと切れる瞬間に感じ取っていったに違いない。 とkろが作兵衛や、光秀や、それをとりまく多くの 「生きている人々」
はまだ何も知らず、みずからの意志で動いているつもりで、あの滑稽な踊りを踊らされているのであろう・・・・ 御前はそこでふとまた自分の心の動揺してゆくのを覚えた。 信康を失って悲嘆の底に沈んで生きている徳姫や、秀吉の妻の寧々
や、今は越前の北の庄で、柴田勝家の妻になっている市姫やに、 「── 人生とはこうしたものぞ」 そう言って聞かせてやりたい気がするのだった。 (聞かせるためには、生きねばならないのだが・・・・) そう思ったときに、またはっきりと中庭に倒れて、点々と散っている屍体が眼に入った。 次第に夜があけ放たれて来たせいであろう、芝生の青さがそのまま水面に浮かんだ萍草
に見え、屍体はいよいよあざやかに睡蓮の花に見えた。 とつぜん御前は、わずかに咳
した。 見る見る燃え広がった奥殿の火が、ついにここまで煙と焔を吹きつけて来たからだった。 「煙い・・・・けむい・・・・」 御前は眼に見えない誰かを叱りつけるようにそういうと、そのまま微かに首を動かし、まっ白な手で草をつかんで、動かなくなっていった。 まだ寺内に生き残っている味方があると見え、ゴーッと勢いました火のうなりに混じってどこかで太刀打ちの音が聞こえる。 頭上を、兵火に驚いた鴉が七、八十、群れをなして、かしましく鳴きたてながら南から北へ渡っていった。
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