作兵衛はあせっていた。 蘭丸も討ちたかったが信長に一槍つけて、その首級を早くあげたかった。 三条の光秀の本陣からは本能寺の表に陣取っている明智左馬助のもとへ、何度か伝令がやって来ていた。信長の首級はまだかという焦り切った督促
だった。 ── もし戦いが昼に及んだら勝敗は逆睹しがたいものになろう。京童
が騒ぎ出すころまでに、信長の首は是非とも三条河原にさらしておかなければならない。さすれば無力な現実主義の公卿どもは、有無
なく光秀に従って宮中へ取りなし、彼の頭上に新しく武将の頭領としての官位を奏請してくれるに違いない。それがなければ彼は一個の主殺しをあえてした陪臣
にすぎないのだ。 光秀は、そうした逆臣のままで真昼の日の下に立つことをひどく怖れ、矢継ぎ早に使いを派して来るのであった。 そこで左馬助光春は、山本三右衛門、安田作兵衛、四王天但馬守の三人に、 「──
夜明け前に是非とも首級を」 と厳命し、作兵衛は、ついに頑強な抵抗線を破ってここまで進み、はっきりとその眼で信長の姿をみとめたのだ。 蘭丸は、倒れたまま体を作兵衛のまえにころがし、もう一度夢中で相手の脛をはらった。 作兵衛はあせりきった呻きをあげて一歩すさった。その瞬間に、パッと身を起こすと、蘭丸はまた猛然として作兵衛に突きかかった。 もはや、これほどの体力はあるまいと思い込んでいた作兵衛は不意を突かれて、左右に穂先を避けながらだじだじとうしろへすさった。 蘭丸はそれに勢いを得て、いよいよはげしく突きかかる。事態は逆になった。さっきまで余裕を持って攻勢をとっていた作兵衛が見る間に欄干ぎわまで蘭丸に押しつめられた。 「たッ!」 と、蘭丸の必死の気合が口を衝き、同時に後退して来た作兵衛の体が、ふしぎな身軽さでパッと宙に浮いたと思うと庭へ飛んでいた。 「あッ!」 と、双方でともに叫んだ。一方は突き損じた蘭丸のこえであったし、一方は庭へ飛び降りた瞬間に、切り石で畳んだ雨垂れ落ちの溝へ足を踏み込んで、仰向
けに倒れた作兵衛の狼狽の声であった。 作兵衛の体が、あわてて起き上がろうとしたとき、欄干に片足かけた蘭丸の槍がくり出された。 決して素早いくりだし方ではなかったが、一方はまだ起き上がろうとする途中だったので、草ずりのすきから左股をつらぬき、そのまま穂先はカチッと石に突き立った。 と、その瞬間に、槍を捨てた作兵衛の右手は腰の太刀にかかっていた。 「ウーム」
と蘭丸は低くうめいた。 作兵衛の豪刀が槍の柄と欄干のぬき
と蘭丸の右足とを膝のあたりから一度に切りはらっていたのである。 「む・・・・む・・・・無念・・・・」 蘭丸の体は、ゆらりと大きくひと揺れすると、槍の柄を掴んだまま、どっと縁に倒れてゆき、それを合図にしたようにして、奥の障子がカーッと異様な明るさにかわっていった。
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