御前はふしぎなものを見るように、もう一度地上へ咲いた睡蓮に花を見やり、それから信長の方を仰いだ。 (もう引きあげていてくれますように・・・・) しかし、信長は傲然
ときざはしに片足下ろして突っ立ったままだった。 しかも、その眼は爛々と血走って自分にそそがれている。 御前はその眼と視線の合ったとき、自分の生涯は不孝ではなかったのだと思い、それから自分を突き伏せた作兵衛が、なぜ信長に襲いかからないのかとふしぎに思った。 眼ははっきりと見えていいるのに、耳はひどく頼りない。どこか遠くで、 「作兵衛とどまれッ」 森蘭丸の声らしかった。 御前は全身の力をこめて首を立て、その声の方を見やった。 一人の足軽が御前の右手の欄干
に立っていま、肩から作兵衛を縁側へ送り込もうとしているところだった。 (ああ、殿があぶない・・・・) 作兵衛は槍を杖にして、ひらりと縁へとびあがった。 「安田作兵衛、みしるし頂戴!」 信長はそれでもまだ傲然と槍を突いたまま。 白い綾衣
の単衣 に、同じく白いひとえ帯をしめた姿が、かっきりと浮き出して、ふしぎな崇厳さで殺気の像を描き出している。 微動もしない信長のかげから、いきなり一つの人影がとび出して作兵衛に槍をつけた。 「作兵衛、森蘭丸を見知ってかうぬは」 躍り出したのは森蘭丸らしい。 それにしても何という疲れを知らぬ蘭丸の闘志の凄まじさであろうか。十八歳の全身は信長の持つすべてのものを吸い取って、恐怖するところのない超人に育っている。 「おお、蘭丸か、心得たッ」 作兵衛もまたぴたりと槍を構えて対していった。 蘭丸から先にはげしく突きかかった。 作兵衛はそれを軽く左右に受け流し、それからカランと槍がもつれた。 そしてその槍が離れたときに、手傷を負っている蘭丸はドッと縁へ尻餅ついた。 その瞬間だった。それまでじっと濃御前を見つめていた信長が、すっと視線をそらすとそのまま奥へ向けて歩き出したのは・・・・ 奥へ通ずる小障子は中の灯りを映して白く光っている。 「右大将かえさせたまえ!」 作兵衛は信長に追いすがった。 しかし信長は振り返りもしなければ歩みも止めなかった。 さっと明かりが畳にこぼれ、それから障子はまた閉っていった。 その障子のそばへ走り寄って、 「たッ!」
と作兵衛は外から一突きしたが、その時には髪をふり乱した蘭丸が、もう作兵衛に襲いかかっていた。 作兵衛は舌打ちして、蘭丸に向き直った。 「上様!」 と、蘭丸は奥へ向けてまた叫んだ。 「敵は一歩も近づけませぬ。心おきなく」 「とう!」 作兵衛は、いら立って槍をくり出した。 蘭丸はまた強
か尻餅ついて作兵衛の脛
をはらった。 |