信長は妻の声が聞こえているのかいないのか、依然として中庭の出口をきびしく睨んで立っている。 濃御前は、もう一度声をかけようとして考え直したように首を振った。 この闘いなれた猛獣は、誰に注意されなくとの、踊るかかるときには踊りかかり、退くときには退いて決して誤ることはあるまい。 もし奥へ退く間がなかったら、ここでこのまま立腹
切ってゆくかもしれない。 その猛々しい根性で訓練された若獅子たち、これはまた何という生一本な強さなのか。それぞれがすでに草に伏して這いまわるほどの手傷を受けていながら、何十倍かの敵をまた中庭から押し出してしまったのだ。 「殿!」 人影のなくなった中庭へ、ひょろりとした足どりで一つの影が戻って来た。 「蘭丸どのの仰せ・・・・少しも早よう・・・・」 それはいちばん手傷の重い、高橋虎松の声であった。 「殿!」 まてよろよろと一歩すすんだ。手にした太刀が曲がっているのが御前の眼に悲しく映じた。と、そのとき、その影を追って、つつッと中門を入って来た一つの影が、 「高橋虎松、逃げるなッ」 と、もつれすがった。 「何者ッ」 「明智勢にその人ありと知られた山本三右衛門、見參!」 屈強な黒糸おどしの草摺
りが音をたてて、パッと槍がくり出された。 虎松は曲がった太刀で、その穂先を刈り取るようになぐっていった。 どっと双方が草の上へ尻餅ついた。 信長の体がまた飛鳥のように庭へ走ろうとして、しかしそのまま
「うーむ」 と、こらえた。 尻餅のついた一人は立ち上がったが、一人はそのままもう立てなかった。 立ち上がった影は山本三右衛門、しのまま突っ伏してしまったのは高橋虎松だった。 信長は、虎松との距離をはかって、間に合わぬと踏んで動かなかったのに違いない。 そうした駆け引きは、ゾーッとするほど正確に、この猛獣の神経に刻みつけられている。 (わが良人・・・・この闘いなれた荒獅子が・・・・) 濃御前は死ぬまでは闘うであろう信長の仕事が、すでに終わったのをはっきりと感じとった。 これはやはり右大将でもなければ天下取りでもなかったのだ。乱れきった手のつけられぬ戦国へ一筋の道をつけるために、山を切り、林をなぎ、藪
を焼くための破壊者だったのだ。 その破壊者がわが血もそそいで壊しつくした土地から収穫する者は別にあろう。 (わらわは、その破壊者の妻であった) 「殿!」 と、御前はバラ色に頬をそめて力強く良人を見上げた。 「わらわもそろそろこの腕に血ぬりまする」 「小癪なバケものめ」 と、信長は言ったが、御前は立ってゆっくりと薙刀に素振りをくれた。 また中門に、敵の新手が殺到して来たからであった。 |