〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/23 (火) 本 能 寺 (十)

もはや三百あまりのうち二百近くは斬り伏せられたと、濃御前は計算していた。
明けやすい夏の夜は、間もなく東から白みかけてくるに違いない。
雨はあがって、よい天気になりそうだと御前は思った。
三条の堀河からひいた本能寺の周囲の溝には、睡蓮すいれん が澄んだ水の上に点々と浮いていた。その間に朝の空のあかね雲が映ったら、どんなに美しかろうと、ふと思い、御前は何か勝ち誇った気持ちにさえなった。
御前の肉親で、その生涯を完了した者はひとりもいない。父道三も、母の明智御前も、弟たちも、異腹の兄も、みんな胴と首を切りはなたれて乱世の犠牲になった。
その中で、自分一人、畳の上で静かな死を迎えるのかと思うと、絶えず不安がつきまとった。
もともと信長の寝首をかく気で嫁いで来た身であった。それが、いつからか平凡に良人を案ずる妻になり、それからやがてその妻の座にも絶望した。
信長は決して妻のものではなかったのだ。十を得れば百を望み、百を獲れば千を望む。とどまるところのない男の貪欲どんよく さにあって、御前は絶えず、二人の間をつな ぐわずかな愛情の糸の断たれるときにおび えつづけた。
それが、思いがけない光秀の叛逆にあって、がらりと様相を一変した。
御前はすでに信長が死を決しているのがよく分った。用心深い悪戯いたずら ッ子が、ちょっとの油断を巧みにつかれ、再び以前の信長に還元したのだ。
いま、近づく敵に夢中になって矢を射かけている信長は、すでに天下人ではなかった。
死ののがれぬところと知り尽くしていて、なお近づく者の胸板を射抜かずにはいられない、かっての日の吉法師に立ち返っていた。その吉法師の妻は濃姫以外にありようはなかった。
(吉法師と濃姫とで死んでゆけるとは思わなかった・・・・)
ダダダーンと、また表門のあたりで鉄砲が鳴り、さいかちの青葉の匂いの中に硝煙の香がまじった。
と、そのとき朱塗りの槍を血塗った蘭丸が、
「うぬッ、来るかッ」
蔀の向うの縁側に姿を見せ、ふり返りざま誰かを一人突きふせた。そしてそのあとからなだれるように十七、八の影がもつれて視野に入った。
「森力丸じゃ。来いッ」
力丸の若い声が、気負った叫びで投げられると、次の瞬間 「あっ!」 と切ない悲鳴になった。
斬ろうとして、斬られたのだ。
「弟のあだ!森坊丸、動くな」
「小癪なッ、山本三右衛門見参げんざん
「あっ!」 と、また味方の悲鳴。
御前は夢中になって蔀の内で づるを鳴らしつづける信長に矢を渡した。信長はもはや悪童に戻って、自分が指揮者であることを忘れているのではあるまいか。
すでに敵は奥殿へかかっている。自害する気ならば、もうこの場を引きあげねば・・・・
そう思ったとき、蘭丸と、虎松、与五郎、小八郎の四人が阿修羅のようにまた ぢかの敵を押し返した。
もう力丸も坊丸も愛平も又一郎も倒れている。
長谷川はせがわ 宗仁そうにん は」おらぬか」
大息ついて信長は叫んだ。
「今だ、女どもを連れて落ちよ、急げや宗仁!」

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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