もはや三百あまりのうち二百近くは斬り伏せられたと、濃御前は計算していた。 明けやすい夏の夜は、間もなく東から白みかけてくるに違いない。 雨はあがって、よい天気になりそうだと御前は思った。 三条の堀河からひいた本能寺の周囲の溝には、睡蓮
が澄んだ水の上に点々と浮いていた。その間に朝の空のあかね雲が映ったら、どんなに美しかろうと、ふと思い、御前は何か勝ち誇った気持ちにさえなった。 御前の肉親で、その生涯を完了した者はひとりもいない。父道三も、母の明智御前も、弟たちも、異腹の兄も、みんな胴と首を切りはなたれて乱世の犠牲になった。 その中で、自分一人、畳の上で静かな死を迎えるのかと思うと、絶えず不安がつきまとった。 もともと信長の寝首をかく気で嫁いで来た身であった。それが、いつからか平凡に良人を案ずる妻になり、それからやがてその妻の座にも絶望した。 信長は決して妻のものではなかったのだ。十を得れば百を望み、百を獲れば千を望む。とどまるところのない男の貪欲
さにあって、御前は絶えず、二人の間を繋
ぐわずかな愛情の糸の断たれるときに怖
えつづけた。 それが、思いがけない光秀の叛逆にあって、がらりと様相を一変した。 御前はすでに信長が死を決しているのがよく分った。用心深い悪戯
ッ子が、ちょっとの油断を巧みにつかれ、再び以前の信長に還元したのだ。 いま、近づく敵に夢中になって矢を射かけている信長は、すでに天下人ではなかった。 死ののがれぬところと知り尽くしていて、なお近づく者の胸板を射抜かずにはいられない、かっての日の吉法師に立ち返っていた。その吉法師の妻は濃姫以外にありようはなかった。 (吉法師と濃姫とで死んでゆけるとは思わなかった・・・・) ダダダーンと、また表門のあたりで鉄砲が鳴り、さいかちの青葉の匂いの中に硝煙の香がまじった。 と、そのとき朱塗りの槍を血塗った蘭丸が、 「うぬッ、来るかッ」 蔀の向うの縁側に姿を見せ、ふり返りざま誰かを一人突きふせた。そしてそのあとからなだれるように十七、八の影がもつれて視野に入った。 「森力丸じゃ。来いッ」 力丸の若い声が、気負った叫びで投げられると、次の瞬間
「あっ!」 と切ない悲鳴になった。 斬ろうとして、斬られたのだ。 「弟のあだ!森坊丸、動くな」 「小癪なッ、山本三右衛門見参
」 「あっ!」 と、また味方の悲鳴。 御前は夢中になって蔀の内で弓
づるを鳴らしつづける信長に矢を渡した。信長はもはや悪童に戻って、自分が指揮者であることを忘れているのではあるまいか。 すでに敵は奥殿へかかっている。自害する気ならば、もうこの場を引きあげねば・・・・ そう思ったとき、蘭丸と、虎松、与五郎、小八郎の四人が阿修羅のようにまた眼
ぢかの敵を押し返した。 もう力丸も坊丸も愛平も又一郎も倒れている。 「長谷川
宗仁 は」おらぬか」 大息ついて信長は叫んだ。 「今だ、女どもを連れて落ちよ、急げや宗仁!」
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