〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/23 (火) 本 能 寺 (十一)

信長の声に答えて、長谷川宗仁が、
「ははッ」 と答えたとき、また、奥殿の入り口でワーッととき の声があがった。
「宗仁、そちは武人ではない。女どもを引き連れて早く落ちよ。ハゲは女子供は斬らぬ奴だ」
それを聞いて、濃御前はギクリとした。すでに悪童に還った信長、何もかも忘れて眼先の敵に対していると思った信長が、実は的確に光秀の性格まで計算しているのであった。
いや、これは計算ではなくて、信長という一匹の巨獣が身につけている、とぎすまされた戦のカンに違いない。
次の間に、体を寄せ合ってすくんでいた十四、五人の女たちは、この声でころがるように縁先へなだれ出た。
「お濃の方さま・・・・」
と宗仁が言ったが、濃御前は見向きもせずに手を振ってまた、信長に矢を渡した。
「ではご免下さりませ」
宗仁につづいて女たちは、きざはしを悲鳴とともに中庭にころがり降りた。
「あ・・・・」
と信長が叫んだ。
「弓づるが切れた! 槍をもてッ」
もう信長の近くには一人の小姓も残っていなかった。押し寄せては押し返すたびに、誰かが駆け出していって、そのまま戻って来なかったからだ。
「はいッ」 と答えて濃御前は、奥へ飛び入り、鎌十字の槍を取ってきて信長に渡した。
信長はりゅうりゅうと槍をしごいて、またちらりと御前を見た。
辻の花のきぬ を着けた御前は、??はなだ玉襷たまだすき をかけ、小姓と同じ汗どめの鉢巻をして、自分では白柄の大薙刀を小脇にかいこんでいた。
「濃! うぬも落ちよ」
「落ちませぬ」
「なに、この信長をはず かしめようとか、信長は最期に女子の力は借りぬぞ」
「濃は女子ではござりませぬ。それより、おみずからの戦は、もはやおやめなされませ」
「たわけめ!」
きびしい声で叱りつけたが、しかしそのときの信長の眼は笑っていた。
「うぬの指図を受ける信長か」
そこへまたバラバラッと四つの人影が小腰をかがめて駆けて来た。
信長はこのあてり、と、ようやく敵も感づいた様子だった。
「うぬッ!」
敵の姿を見るとあとへ退 ける信長ではない。
パッと蔀のうちから踊り出て、まっ先の一人を物をも言わずに串刺しに刺して振った。
「ギャッ!」 という悲鳴とともに、
「おお、右大将はこれにあったぞ! 方々これに右大将が・・・・」
大声でわめ く第二の影に信長の手練の槍はまた伸びた。と、その影の倒れる向うから、全身に返り血を浴びた若者が朕で来て、
「おんみずからの働き、恐れ多し。いざ、ご生害しょうがい を」
叫びざま、残った二人を、見る間に穂先で遠ざけていった。
すでに、あちこちへ手傷を負っている蘭丸であった。

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ