「方々曲者
でござる!」 「謀叛でござるぞ」 急に寺内は蜂の巣をこわしたような騒ぎに変わった。 寺内の人数は夜警や火の番の足軽小者までを含めてせいぜい三百の小人数だったが、さすがに信長が選りすぐって連れて来ている小姓たちだけあって、飛び起きるとその動作は敏捷
をきわめていた。 さっと襖を開けて廻る者、敵の矢に備えて畳みを上げる者、足軽たちを指揮して庭へ走る者、信長の周囲へ人垣を作る者・・・・ 誰もこのような危急を予想し得た者はなかったはずなのに、一瞬にしてそれは最善と思える防備の姿勢をとっている。 信長は息もつかずに四本つづけて矢を射はなった。 そのたびに中門から中庭へ忍び込んだ黒い点の一つが虚空をつかんで消えて行く。どこで誰がいている矢かわからないので、いったんは雪崩
れ込むかに見えた敵兵の動きがこれで止まった。 「上様、なにとぞ蔀
の内へ」 「おう」 信長はその時はじめて、例の割れるような声で下知した。 「惟任
光秀が謀叛、是非もなし、かくなるうえは、眼にもの見せて腹切ろうぞ!」 「ははッ」 と近くで大勢の声がしたが、信長はもはやそれを聞いてはいなかった。 蘭丸の言うままに、堂宇の蔀のうちへ引きあげて、そこから近づく者を射伏せる姿勢でかたわらをかえりみた。 すでに蘭丸はみなを指揮するために走り去って、うしろに控えているのはまだ十四歳の蘭丸の末弟力丸と、ほか四、五人だった。 信長はその中の一人にふと視線をとめると、 「お濃かッ」
と鋭く言った。 「はい」 「こなた女どもを引き連れて今の間に早く落ちよ」 しかし濃御前は答えなかった。はじめから箙
をささげてついているのに、今まで気がつかなかった信長なのだ。 「お濃!」 「はい」 「早くみなを連れて落ちよと申すが、分らぬのかッ」 「そのお役目、ほかの者にお申しつけを」 こんどは信長が答えなかった。落ちよと口では言いながら、落ちる女ではないことをよく知っているからだった。 (光秀が謀叛した・・・・) 信長はもう一度自分自身に言い聞かせるように、腹のうちで繰り返した。 ふしぎに腹は立たず、何か滑稽
な気がして笑い出しそうだった。 そのくせ、あの用心深いハゲめが、考え抜いて謀叛を起こした以上、手配りに一分の隙もなく、遁れることなど思いもよらぬとはっきり計算出来るのだった。 (大笑いだ・・・・) 大笑いのついでに、昼間もっと公卿どもに大盤振る舞いでもしておけばよかったのに・・・・贈り物を突き返したり、当てにして来たであろう、いわゆる右大将の豪華な茶会を味わわせなかったり、信長という男もケチな男だ・・・・ いつか敵味方は寺内で入り乱れて戦っている。ダ、ダ、ダッとどこかで鉄砲の音がした。
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