〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/22 (月) 本 能 寺 (七)

何のために戦うのか?
それは常に大半の士卒の知るところではなかった。生くるとは、戦いに勝つこと・・・・
そうした現実の中で絶えず太刀を振り槍を構えて来た荒武者どもは、乱入の命が下ると、はじめてワーッととき の声をあげ、先を争って塀にとびついた。
表門では力自慢の四王天但馬守の嫡男又兵衛が、六十貫はあろうと思われる駒継繋ぎ石をたたきつけて門扉を破った。
約一万坪あまりの本能寺の境内は、まだ薄気味悪いほど森閑としている。
さいかちの青葉の匂いがむせるように立ち込め、梢の辺りに星がチラチラ見えだしていた。
「ワーッ」
と、また士卒たちは白刃と槍をかざして叫んだ。
あまりに静過ぎるのと、森の中のぬめの闇とが、一瞬彼らの進撃をさえぎった。
その奥殿の几帳の中で、信長は、ひやりとした異常な空気の動きを感じてはね起きていた。
信忠と源三郎を返したあと、九ツ (十二時) ごろまで、女房どもを相手に、機嫌よく盃を重ねて酔いつぶれていた信長だった。
「誰かある!」
起き上がると信長は次の間へ声をかけた。
「下郎どもが酔い痴れていさかいを始めたようじゃ。静めて参れ」
かって自分が田楽狭間に今川義元を急襲したとき、義元はそれを家臣に喧嘩と感じ取ったのだったが、今夜の信長も同じであった。
「はッ」 と、次の間で、森蘭丸、小川愛平、飯川宮松の、三人の起きる気配がした。
「待てッ!」
と、信長は叫んだ。
「いさかいではない、あれを聞け・・・・あ、、軍兵もあまた、この寺内に闖入ちんにゅう しつつあるぞ」
信長は几帳から躍り出し、大薙刀おおなぎなた をつかんでまた全身を耳にした。
「何ものの仕業、もの見せよ。お蘭!」
「はっ」
蘭丸は片手に太刀、片手に手燭をとって縁側に走り出た。
たしかにただならぬ人馬のざわめきだったが、あたりは暗くてまだ見通せない。
「何者なるぞ、上様がこれにおわします。立ち騒ぐな、無礼であろう」
言う間にも、中門の向うや廻廊のあたりにひしひしと人の押し寄せる気配を感じた。
「何者なるぞ!」
もう一度大声で言って、
「宮松、愛平、見れ参れ」
蘭丸の声に答えて、飯川宮松が中門の塀ぎわまで行き、栗鼠りす のように庭木の松によじ登った。
「あ、旗が見えました。水色に桔梗ききょう の紋!」
「なに、桔梗の紋と?! さては・・・・」
蘭丸が信長の寝所へ引っ返そうとしたとき、
「うむ、光秀か」
まっ白な白綾の単衣ひとえ をまとった信長は、すでに高縁へ出て来て立っていた。
信長は一度取った薙刀の代わりに、三人張り十三づか の強弓をたずさえて、ぐっと外の闇を睨んでいった。うしろに矢屏風の矢束を解き、えびら ささげて従って来ているのは小姓か女房かよく分らなかった。
「上様! 日向守ご謀叛と覚えました。ここにあっては危のうござりまする。しとみ の内へ何とぞ・・・・」
蘭丸が信長の体を押し戻そうとして時に、
「うぬっ、ハゲめが・・・・」
信長は最初の矢をきりきりっと引きしぼって、闇の中へひょうと放った。
と、同時にメリメリと中門が押し破られ、敵の影が闇の庭へ点々と浮き上がった。

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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