おびただしい公卿や僧侶の客が帰りだしたのは七ツ
(四時) すぎからだった。 彼らは一様に、信長を豪放らしく見えて、その実、神経質な猜疑
ぶかい大将と見ているようだった。 それだけに、あっさり先に帰っては、うわべはとにかく後が怖い。 (・・・・あやつ信長を軽く見ている) そう思われると、きっとどこかで復讐されそうな気がするのだ。 それだけに今宵は信忠がやって来て、父子で戦の打ち合わせがあるらしいと言う話が一座に伝わるまでは、誰も立とうとしなかった。 程よい時に、蘭丸の弟の坊丸がやって来て、 「三位の中将様、これよりお渡りなされてよろしきや否や、おうかがいのお便りが参りました」 そう言ったので、はじめて人々は立ちだした。 みな濃御前の指図だったが、信長は別に不快な顔もせず、 「おお、もう来られてよいと中将に伝えよ」 そう言ってからみんなに、 「いずれ毛利を退治
たのち、また馬揃えでもお目にかけよう」 と笑顔で送った。 そのころから雨はあがって、本能寺の森の梢
にかすかに青空がのぞいていた。 信長はいったん衣服を改め、客殿の高い廻廊に立ってわが子二人の到着を待った。 「もうこの廻廊も古い、うかと力足を踏むと折れそうじゃの」 わざと朽ちかけた床を踏んでみたり、古い欄間
の彫刻を見上げたりしていた。 (やはり子供と会うのは楽しいのだ・・・・) 濃御前はそう思って、それがまた淋しかった。子のない女には、良人よりほかにすがれるものはない、それなのに、その良人は、いつか妻の手の届かぬ、雲の上へ飛び去ろうとしている・・・・ 「お濃・・・・」 「はい」 「今宵はな、信忠や源三郎の供にも、酒を取らせ」 「はい」 「明日はもはや戦場。今宵だけは無礼講で、信長もくつろごうぞ」 「無礼講と仰せられると、わらわもいただいてよとしゅうござりまするか」 「ハッハッハ、よいとも、よいとも、小姓どもにも、今日は存分に飲ませてやれ」 「殿・・・・」 「なんじゃ、不服そうな面
つきじゃぞ」 「ここはお城ではござりませぬ。ご父子とわれら女房どもまでの無礼講はよいとして、お側衆は・・・・」 「ならぬと言うのか。ワッハッハッハ・・・・」 「昔の殿らしゅうござりませぬ。今後の習わしにもなることゆえ」 信長は、またおかしそうに笑った。 「ハッハッハ、お濃はやはり女子じゃの。もし信長の身辺を狙う者があったら、小姓どもの酔う酔わぬくらいで事が左右すると思うか、本能寺は要害の地ではない。それに信長の身辺にはいま、何の兵力もないではないか。案ずるな、乱酔して喧嘩するほどは、許しはせぬ」 (昔と違った!) 濃御前はさしうつむいて口をつぐんだ。
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