信長がさえぎっても濃御前はいっこうにひるまなかった。 他のお側衆や女房たちは信長のこの一括でいつも口をつぐんで引き下がり、そのためにかえって後の処理は手間取ることになり勝ちだった。 「うるそう思し召されてもまだまだ後が・・・・」
と濃御前は同じ調子で指をくり続ける。 「西園寺亜相
のお次が三条西、久我 、高倉
、水無瀬 、寺明院
、庭田の黄門 、観修寺
の黄門、正親 町
、中山、烏丸 、広橋
、坊城 、五辻、竹内、花山
院 、万里
小路 、中山中将、冷泉
、西洞院 、四条、陰陽頭
・・・・」 「分った・・・・」 信長はまた大喝した。 「京中の公卿の虫干しではないか」 「仰せのとおり」 と御膳は微笑した。 「もはや梅雨に入っております。それゆえ、明日のご接待は茶菓
がけにいたすよう、お坊主衆に命じておきました」 「出過ぎた指図だ。が、それにしても戦には機のあることも知らぬ方々、追従
は迷惑じゃ」 「お館さま、途中で酒を、と、仰せられませぬよう」 「余計な指図はするなと申すのに」 「夕景からは三位中将 (信忠) さまと、源三郎
(末子) さまが参られまする。中将さまとは、甲府以来ご食事も共になさらぬよし、ご父子でお寛ぎなされますよう」 信長は呆れたように舌打ちした。 「バケモノ婆アめ、一から十まで指図しくさる。それでは、ほどよいときに虫干しどもを追い帰せ」 「はい、充分ご歓談のうえ、ご帰還を願うように計らいまする」 その夜は信長はいつもより早く寝所に入った。 シトシトと降りつづける雨音が、深い濠に囲まれた本能寺の森をつつんで、几帳
を取りまく女たちの姿が、何か幻影を見るように汗ばんだ淡さであった。 濃御膳は信長の眠りつくまでかたわらにあって良人
の寝姿を眺めていた。 (自分が出て来なければ・・・・) そう思っていながら、今では良人と自分の間に遠い遠い距離を感ずる。 右大臣といえば官位と、おびただしい人々の追従とが、二人をぐいぐい引き離して、やがてどちらも見えない位置に拉
し去って行きそうだった。 (古い家臣たちも、きっとそれを淋しがっているであろう・・・・) 濃御前は、姫と呼ばれた昔のころの信長を、なつかしく瞼に描いて、やがて自分も眠りにおちていた。 開くれば、いよいよ六月一日。 四ツ
(十時) ごろから客殿へは、昨日のうちに通じてあった公卿雲客
たちが続々と集まった。雨はふりみふらずみ。 信長は案じていたほど不機嫌ではなく、進物はみなその場で返したが、坊主に茶を立てさせて京の夏の行事などをおもしろそうに語りあっていた。 たぶん、夕刻からの、父子水入らずの酒宴の計らいが気に入っていたからであろう。 濃御前はむろん、こうした表立った客席へは、ほとんど姿を見せなかった。 |