〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/21 (日) 本 能 寺 (一)

信長が、森蘭丸兄弟などの近習約五十人ほどを従え、本能寺 (下京六角通油小路東) に入ったのは五月二十九日の日暮れであった。
すでに女房たちの一団と約二百人余の警護の者は先に参着していて、午後から降り出した雨をしきりに気にしながら待っていた。
信長上洛となると、いつも公卿くぎょう たちが山科やましな まで出迎える。そこで長々と虚礼の交換をするのを信長はひどく嫌っていた。
(またそのために手間取って濡れているのではなかろうか・・・・?)
そう思うと、一日先に本能寺に到着していて、何かと女たちの指図に当たっていた濃御前は、気が気ではなかった。
長子の三位中将信忠は、すでに家康の案内をして来て妙覚寺みょうかくじ (上京二条南室町) に滞在していたのだが、家康に長谷川竹丸と杉原七朗左衛門家次をつけて、大坂から堺へ送り出すと、自分は二条城に移って、妙覚寺へは弟の源三郎げんざぶろう 勝長かつなが (信長の末子) を入れてやっている。
三七朗信孝は住吉に出陣して阿波へ渡ろうとしていたし、これで織田兄弟は父信長の上洛を待って一気に中国への攻略にかかる態勢を整えおわ っているわけであった。
それだけにでき得ればここでは一切の虚礼は避けて、早く父子を戦場へ送り出したいところだったが、都へ来ると、それはそう簡単には運ばなかった。
なによりも公卿たちが信長を恐れて、いんぎんに虚礼を重ねて来るからだった。
それを簡単にあしらうと、その次にいよいよ丁重をきわめて来る。
こんどは何と言っても家康の接待に時を取られて出陣が遅れている。
濃御膳がわざわざ女たちについて出て来たのは、その虚礼の時を少しでも短縮させようと考えてのことであった。
あんのごとく、濡れた輿から出て、本能寺の奥殿へ通った信長の機嫌はよくなかった。
「おのう 、そちまで、わざわざ何で来ているのだ」
濃御前は笑って、答える代わりに着換えの指図をしていった。
「そちのことを世間ではバケモノだと申しているぞ」
「はい、私もときどきそのような陰口を耳にいたしまする」
女子おなご はな、三十三を過ぎたら、もはやそっと隠れて、わが身の生を楽しむものじゃ」
「はい、でも、まだ私は二十代でござりまするから」
濃御前は、事実、年齢の分らぬあやしい若さで、昔を知らぬ都の人々からは、せいぜい三十あまりにしか見られていなかった。
中には侍女頭ぐらいに考えている公卿もあったし、当然即室と見ている者もあったが、御前はそのようなことなど少しも気にかけていなかった。
「宮内卿法印どのも留守ゆえ、明一日ご機嫌うかがに参上の公卿衆の名を控えさせてござりまする」
「誰々じゃ。都もよいがそれがうるさい。今日も山科まで大ぜい出おってじりじりしたわ」
「はい。近衛殿、同御方御所はじめ、九条との、一条殿、二条殿、聖護しょうご いん 殿、鷹司たかつかさ 殿、菊亭きくてい 殿、徳大寺とくだいじ飛鳥あすか 庭田にわた田辻たつじ甘露かんろ 西園寺さいおんじ ・・・・」
濃御前が指をくってゆくと、信長はかん だかくさえぎった。
「もうよい! 勝手にいたせ」

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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