光秀を迎えた近江の坂本の城では、ほとんど夜を徹して重臣の会合が続けられた。 城代である明智光廉
入道長閑斎 をはじめとして、奥田
宮内 一氏
、三宅 式部
秀朝 、山本対馬守
和久 、諏訪
飛騨守 盛直
、斉藤 内臓介
利三 、伊勢
与三郎 貞中
、村越 三十朗
景則 などが新たに集まり、それにこのたびの安土での出来事を知る人たちが加わって信長の肚の打診が行われた。 明智左馬助も四王天但馬守も、並河掃部
も口をそろえて、信長はいよいよ当家を取り潰す決心に相違ないと証言した。 「出雲、石見の二国を賜るといっても、これはいまだに敵の手中にあるもの。そこへ出陣して攻め取っている間に、丹波、近江の旧領を召し上げられては、父母妻子の身を安んずる場所もなくなりましょう。沖へも出ず、磯へもつけぬという立場で、佐久間信盛、林佐渡守などの例と同じく、明智家滅亡のご計画にちがいござりませぬ」 この場合もっとも不思議なのは出雲、石見の二国をくれようとは言ったが、誰も近江、丹波の旧領を召し上げると言ったものはいないのに、それがもはや決定的なこととして論じられている点であった。 光秀はその夜、ほとんど一語ももらさなかったが、夜が明けると一日そわそわと落ち着かなかった。 言語に絶した腐臭に気づいて誰かが安土から不都合をなじりにやって来そうな気がしてならなかった。 ところが、その問責
の使者もついに来ない。 二十日の夜に至って、はじめて光秀はもう一度みんなを集めて、 「今や、当家は危急存亡の時を迎えた」 重々しく口を開いて、ハラハラと落涙した。 「・・・・よいか、いながらにして自滅を待つより、先んずれば人を制すの古語どおり、当方から兵を挙ぐるに如かずと考えた。方々の心中を洩らされたい」 その時にはもはや、みんなの心は決まっていたので、一人の反対者もあるはずはなかった。 「されば左馬助、治左衛門、四王天但馬、波河掃部以下、これよりただちに丹波の亀山
城へ帰着し、荒木 山城守
、隠岐 五郎
兵衛 らにこの旨を説き聞かせて、来る晦日
、出雲、石見の拝領地へ向かうためと披露して、全軍亀山に集結しておくよう」 「して。わが君は・・・・」 「それがしは一足遅れて坂本を発ち、帰途愛宕
山 に参籠
して亀山へ参る。われに同意あらば万事に手落ちのないように」 すでに叛意は動かし難いものとなり、坂本の兵は二十四日に、まず先発隊が丹波を目指して出発した。光秀はその翌日、残りの三千余騎引き連れて白河越えに嵯峨
の釈迦堂 前へ道をとり、そこで軍勢を奥田宮内と村上和泉に引き渡して、自分はわずかな近臣を従えて愛宕山に登っていった。 表面は中国出征祈願のためであったが、内心は西の坊威徳院
の行裕 房を訪ねて、日頃たしなんでいる百韻
の連歌 興行をするためであった。 (好むと否とにかかわらず、信長と天下を争わなければならなくなった・・・・) そう思うと、老杉にかげる陽射しや、苔むした石段までが、ひとつ、ひとつ、何か大事を光秀にささやくかけてくるのである。 |