家康のための大饗宴は十八、十九、二十日と三日間続いた。 結局兵力が足りなかったので、甲府にあった長子信忠
を呼び戻し、中国へ出陣させる事になり、その到着を待つためでもあったが、信長自身、何かしら家康と別れたくない感情もあったらしい。 三日目の二十日には場所を高雲寺
に改め、ここでも信長は半ばおどけた調子で、家康の膳を自分で運んだ。 「のう、浜松、二人でかような心で接せる時が、また、あるかどうかの」 家康はその時、相手の心やすだてに引き入れられて、うかつに笑ってはならないと自分を戒めた。 「これは勿体
ないことを承るもの。すでに天下は平定しかけておりまする。この次にはどうぞして京でこのご馳走に預かれますよう。家康も決して労はおしみませぬ」 「いや、これは一本やられたわい」 信長は自分から銚子を取って、恐縮する家康に無理に酌してやりながら、 「備中のことがなければ、信長自身、京から、奈良、堺の見物に同道する気であったが、甲府より信忠が到着したゆえ、京までは信忠をつけるでの」 「恐縮千万に存知まする」 「京へは明二十一日にお発ち下され。光秀から話はうけたまわったが、出陣の事は、ゆるりとご見物あって帰国の上のことでよい。大阪、奈良、堺、そのほかへは長谷川竹丸、宮内卿
法印 <松井
友閑 >
などを案内に立てて、決してご不自由なきよう取り計らわせよう。されば今日はしばしの別れ、信長も過ごす、お身もすごされよ」 その日の料理もまた後に 「安土お献立
」 として当時、前代未聞と言われた豪華なもので、五の膳つきであった。 この日は両家の重臣たちもすっかり打ち解け合って、夕刻まで宴はつづき、それぞれの
「肴 つかまつろう」
が出て来て今までになく賑やかだった。 宴が終わったのは暮れ六ツ前。信長は家康をわざわざ高雲寺の玄関まで送って出て、 「螢
など眺めながらそぞろ歩きしてゆかれるがよい。この信長の城下には、お身に危害を加えようとする者は断じてないゆえ」 明るい声で笑って言ったし、事実、腐臭のぬけた街のあちこちに螢がゆるく飛び交わしていた。 家康は鄭重
に頭を下げて玄関を出て、それから出口でもう一度振り返った。 まだ信長が立っていそうな気がして振り返らずにいられなかったのだ。振り返って視線が合うと、二人は同時に、微笑した。 「あれから三十五年経つぞ。いま、それを指繰ってみていたのだ」 「仰せのとおり・・・・」 家康ももう一度頭を下げた。 あれから・・・・とは、二人が最初に会った家康が六歳のときのことであった。
(三十五年。この人とよくも事無く交わって来たものだ・・・・) 二人が同盟してからでもすでに二十一年経つ。 「だは大事に旅をせられるよう」 「ご免下され」 それがこの世で二人の交わした最後の言葉。 家康はゆっくりと山門を発ち出で、信長も城へ戻る支度を声高に命じていた。 家康、四十一歳。 信長は八ツ年上の四十九歳。 天正十年
(1582) の五月二十日の宵
であった。 |