大饗宴は翌十九日もつづいた。 この日も場所は総見寺で、前日に劣らない豪華な配膳、酒宴の後で、こんどは幸若
八郎 九朗
大夫 の能楽見物であった。 ちょうどこのとき、京から近衛
前久 が来合わせていたので、前久と信長と家康とは三人並んで正面の桟敷に坐った。 ところが近衛前久は、事ごとに信長の気色をうかがう様子に見えたので、家康はわざと田舎者をよそおい、なるべく信長の神経にさわるまいとした。 それでもときどき信長は、 「いつかこうして、二人で太平を楽しむ日があると思うていたが、とうとうあったの」 そんな事を言ったり、 「信長の前ゆえ、いつもより役者どもが固くなっている」 などと洩らしたりした。 幸若大夫の舞いはどうやら信長の気に入ったらしかった。 「大織冠
」 二番田歌 を舞い終えると、 「いかがでござる浜松どの」 「結構でござりまする。ただうっとりと見とれました」
と家康は応えた。 「よし、大夫を呼べ。褒美を取らそう」 信長はすぐに三人の前へ幸若大夫を招いて、 「よく出来た。当座の褒美じゃ」 黄金十枚を与えて磊落
に笑った。 が、次の丹波猿楽梅若
大夫 が 「羽衣」 をやり出すと信長の眉はぴくぴくしだした。 梅若大夫は、信長癇癪のことを以前から光秀に必要以上に聞かされていたのだ。それが舞台に立ってみると、真正面から射すくめるような眼
ざしでじっと自分を睨んでいる。と、思ったとたん舞が崩れ、崩れたと思うとさらにまた度忘れがそれにつづいた。 舞が済むか済まぬかに、 「重ねて度忘れするとは何ごとぞ、・・・・梅若を呼べ!」 謡
の数倍の声があたりを震わした。 家康は、とっさに信長が梅若を斬り捨てそうな気がした。 (この晴れの場で、寺院の内を血で汚しては・・・・) そう思うと、わざと感に耐えたように唸ってみせた。 「まことに結構!
さすが、でござりまする」 この声は信長の肩をびくりと動かし、それからさらに荒い呼吸を静めさせた。 蒼白になった梅若大夫は、蘭丸に連れられて御前へ出ると、信長を見上げる気力もなかった。平
蜘蛛 のように平伏してわなわなと震えている。 「梅若!
そちにも褒美を取らす。それっ」 前と同じく黄金十枚、投げ出すように前へ置いて、それから信長はまた幸若大夫を声高に呼んだ。 「その方、もう一度舞い直せっ」 家康はホッとした。 信長の怒声を聞いて、近衛前久までがさっきから震えだしていたのだ。 (この声はもはや、右大臣の声ではないが・・・・) と、家康は思った。 「浜松はまたことのほか能が好きだ。あの梅若までを褒めるとは」 「されば、あれほどの技も、なかなかわれらの眼に触れませぬので」 「そうか。それは何より、わざわざ舞わした甲斐があった。さ、もう一番幸若のをご覧ぜられよ」 信長はようやく機嫌が直ったようだったが、それでもまだ震えながら下がってゆく梅若を睨む眼は鷲のように鋭かった。
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