〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/08/18 (木) 前 夜 の 宴 (二)

「これが並の時なら許せぬところじゃ。これでは市中が鼻持ちならぬ臭気であろう」
「は・・・・はい」
「まあよい。あわただしく出陣用意の中の接待、家康には、こ信長がよう詫びよう。で、宿はすぐに久太郎が屋敷に移したか」
信長は、何を考えているのか、案外なほど、あっさりとうなずいて、
「今日一日じゃ。粗相そそう のないようにの。明日は総見寺でお目にかかると・・・・そうじゃ、その方もう一度家康がもとへ参って、光秀が粗相を詫びて来ておけ。何分にもお人よしにて、出陣と決まると、あの始末・・・・そう言ったら家康も笑って忘れてくれるであろう」
「はい」
「すぐに行っておけ」
「は・・・・はい」
「なぜ立たぬ。まだ何か申すことがあるのか」
「はいっ、実は日向守どの・・・・」
「ハゲが、どうしたのじゃ」
「日向守どのご自身のお考えはとにかく、ご家中の者は、このたびの役替え、ひどく不満の様子にて・・・・」
「ハハハ分っておるわい、あやつらは胆の小さな女子おなご のようなところのあるものども、それゆえはじめは讒言ざんげん とか、左遷させん とか嫉妬じみた妄想をしたであろうよ。それが分っているゆえ、戦が終われば二ヶ国宛行あてが うと申して聞かせたのじゃ。今ごろはもはや機嫌が直ってどう手柄しようかと夢中になっている。案ずるな」
「さようでござりましょうか」
「そうであろうかと言って、昨夜そのことをそちが申し渡したとき、ハゲがわざわざ玄関まで見送ったと申すではないか」
「はい、それゆえちと心にかかりまするので」
「何が・・・・何が気にかかるのだ」
「わざわざ見送って出たあとで、残肴いっさい濠へ捨てるというのが賦に落ちませぬ」
「与総!」
「はいっ」
「それはな、もう一度大宝院へ参って坊主どもにたずねてみよ。たぶんそちが使いに参る以前の仕業しわざ じゃ。ハゲめの腹立ち癖は知れてあること、ムッとしてしもうて、みんなの軽挙を、いまし めおくのを忘れて大宝院を出てしまったのじゃ」
「なるほど・・・・」
「ハゲが大宝院を出る。お役替えと分る。主想いの愚か者が、忠義のつもりで残肴を投げ捨てる。事によるとハゲは、そのようなことは知らずに、そのままキンカン頭を振りたてて坂本城へ発っているかも知れぬぞ」
そう言われると、青山与総もだんだんそんな気がしだして来た。
「調べてみてな、万一残肴を捨てたのが、二ヶ国あてがうと申した後であったら、もう一度おれの耳に入れよ。さなくば案ずるには及ばぬ。久太郎によく申して、明日のことくれぐれも手落ちのないように取り計らえ。五郎左へも蔵五郎 (長谷川竹丸) にも、苦労右衛門 (菅谷) にもおれから充分に申しつけておく」
「かしこまりましてござりまする」
正直に言って、これほどハッキリとした信長の言葉がなかったら、与総はまだ、一応も二応も蜜歩での心を分析してみるところであったが・・・・
さっそく大宝院へ来て問いただしてみると、信長の言うとおり、残肴を捨てたのは二ヶ国増加のことの前であり、そのために、軽挙した家来どもははげしく叱られていることも分ったので、彼は安心して、秋気に追われてあわただしく移った家康を堀の屋敷へ訪ねていった。

「徳川家康 (八) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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