小田原御前の眸
はお藤体から、ゆっくりと良人に移った。 いぜんとしてみじんも悲壮感のない、あどけない眸であった。しかしその眸は、すぐに自分に続いて死んで来る良人の心を信じきっている。 きらりと懐剣の肌に陽がくらめいた。 すでに陽射しは春の暮れというにふさわしい傾き方で、あいたいとした高原の空はかすかに薄く色づき出している。 御前はちらりと唇辺に微笑を見せて、 「では・・・・」 昌次は太刀をとってうしろへ廻り、さっとそれを振りかぶって、思わずヲロヲロッとよろめいた。 自分からすでに最期の時と悟って、わが子を刺した昌次だったが、ぴたりと坐って首をさしのべている御前を見ると、それは一太刀入れる隙の、どこにも見出せないふしぎな聖像に見えていった。 うっかり振り下ろすと、音をたてて太刀が折れそうな気がして来る。 (こんなはずはない!) なた振りかぶって・・・・しかし、昌次は太刀をかざしたまま、どっとその場へ尻餅ついた。 「昌次、どうしたのじゃ」 答えの代わりに昌次は号泣しだした。 彼自身にも何のためか分らなかったが、腕がしびれ、足がなえて来るのである。 「時遅れてはなりませぬ。早う・・・・」 と、また御前はすみとおった声でうながした。 「お館!
こ・・・・こ・・・・この昌次には、御前の首は討てませぬ」 「なに、討てぬと・・・・」 それは凝然
と立っている勝頼ではなくて、いぜんとして同じ口調の御前であった。 「では・・・・わが身で参るといたしましょう」 「あ・・・・」 と勝頼はよろめいた。 再びカチリと懐剣が陽をはじいたと思うと、切っ尖を口にふくんだ御前の体は、投げ出すように草の上に突っ伏した。 勝頼はわれを忘れて御前のわきに膝をついたが、すぐには抱き起こせず、その手は空しく肩のあたりで痙攣
した。 「ウ、ウ、ウ・・・・」 かすかなうめきとともに、あたりの草が見る間に染まり、やはて顔をそむけたまま勝頼の手が妻の肩にかかっていった。 「御前!」
と、勝頼は一声叫び、それからあわてて鎧の袖で血にまみれた御前の顔をかくしていった。 「見事な最期・・・・武将も及ばぬ・・・・」 「・・・・」 「勝頼もつづいて参るぞ!」 しかい、そのときにはもう御前はぐったりと良人の腕に重みをかけてこと切れていた。 ワーッと女たちの泣き声がせきを切って沸きあがった。 勝頼は妻の亡がらを抱えたままふたたび茫然と立つことも忘れている。 「あっ、敵がやって来たらしい」 すっくと立って、西の方へ駆け出したのは秋山
紀伊守 と、小原
下総守 、そう言えば、暮れおちようとしてひときわ明るさを増した夕映えのかなたから、陣鉦
太鼓 のひびきが、おどろに聞こえだしている。 そこここで、御前にならう女たちの自害が始まったのはその頃からだった。
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