〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/15 (月) 滅 亡 の 歌 (三)

太郎の歌は、小田原御前の童女のような一途さが、ついに勝頼父子に何をすべきかの理性とゆとりを取り戻させた証拠であった。
勝頼は、わが子の歌を聞くと、
「わかった太郎」
と、声をおとした。
「そうか。それが少年のこなたや御前の覚悟と分れば、思い残すところはない・・・・御前!」
ふたたび勝頼は若い妻をふり返って、
「こなたも、ここを自害の地とする心じゃなあ」
「はい、よろこんでお供いたしまする」
「そうか。それ聞いて・・・・いや、あの世でこんどは、こなたの嫌な戦はやめ、睦まじゅうちぎ ろうなあ」
「はい。ご決心下されて・・・・嬉しゅう存知まする」
「昌次、御前が介錯はそちに頼もう。御前はすでに法華経を開いている。新府の城を出るときから、無心な御前は・・・・今日のあるのを知っていたのだ・・・・」
そう言えば御前の前には、別に二枚の短冊がおいてあり、手には数珠じゅず経巻きょうかん が持たれていた。
二枚の短冊には、

帰るかり  たのむぞかくの こと の葉を
    もちて相模の こ府におとせよ
ねにたてて さぞ惜しまなむ 散る花の
    色につらぬる 枝の鶯
と、書いてあった。
勝頼に言われるまでもなく御前の心はとこどき故郷へとんでいたのだ。しかし、そこへ帰りたいとは思っていなかった。
この世で知った一途な良人への慕情を、誰にも、どのような出来事にもみだ されたくはなかった。いや紊されずに済む世界へどうして良人を連れ去ろうかというのが、新府を出るときからの御前の希いのすべてであった。
戦も、政略も、陰謀も、義理もない世界。そこへ思いのままに飛び立ってゆく自分の心を兄たちに告げてやりたい郷愁だった。
(どんなに兄たちが自分を惜しむか・・・・)
しかしそれは悲しみだけではなくて、ほのぼのとした勝利感さえ伴っている。
「では、仰せによってそれがしが・・・・」
土屋昌次が刀を取って御前のうしろにまわると、
「露払いつかまつりまする」
いきなり昌次のうしろで若い女の声がした。
御前の侍女のお藤であった。
お藤は懐剣を胸に突き立ててから、全身の力で、これも歌を口にした。
「・・・・咲くときは・・・・数にも入らぬ花なれど・・・・散るにはもれぬ春の暮れかな」
「お藤・・・・」
一度経巻を置いて懐剣を解きだしていた御前は、ふたたび経巻を取ってお藤の方へさらりと開いた。
「こなたまで・・・・伴してくりゃるか」
「奥方さま・・・・」
「お礼を言います。あの世で楽しく、のう」
そう言ってから昌次に、
「では」 と言うと懐剣のさや をはらった。
勝頼は立ったまま、落ち着き払った御前の姿を裂けるような眼をしてじっとみつめている・・・・
侍女のお藤が、ばさりと草の上にのめった。
「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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