人々の間に、ふしぎなどよめきがわき起こった。 もはや死よりほかはなかったこの一群のさまよい人が、御前の歌から、はじめてはっきりと自分たちの運命に思い到った狼狽であり、動きであった。 が、その動きもすぐに静まり、こんどは前よりもいっそう空虚な、晴れすぎた日の青空に似た静寂がおとずれた。 ひとしきりつっ伏していた昌次の妻が、顔をあげると自分もまた懐紙を出して筆を動かしだしたからであった。 たぶん御前に返歌を認めるつもりなのであろう。それにしても追いつめられたこの羊の群れに、このように死を飾ろうとする心がひそんでいようとは・・・・ 昌次の妻はうやうやしくその懐紙を御前の前にさし出した。 「御前はそれを白蝋
の透明さに似た表情で受け取ると、ゆっくりと声を出して読んでいった。 「・・・・かいあらじ、蕾
める花の先だちて、空しき枝に葉は残るとも・・・・かいあらじ、蕾める花の・・・・」 くり返す声は、もはや、ここに吹き寄せられた悲惨な人間の声ではなかった。 強
いて言ったら、それは悲しみそのものの声とでも言おうか、人の大地にも空にも草木にもしみとおっていきそうな声であった。 その声の切れ目で、はじかれたように勝頼は立ち上がった。 彼はつかつかと御前のそばへ歩み寄ると、 「帰りとうはないもか、お方は?」 「どこへ・・・・でござりまするか?」 「相模の、お方の実家へ」 「私は、武田勝頼の妻でござります」 御前はまた歌うような声で言って、 「仕合わせでございました、私は・・・・」 「それは・・・・それは本心ではない!」 と、勝頼は急
き込んだ。 「故郷の恋しゅうない者があるものか。肉親の慕わしゅうない者があるものかっ」 御前は素直にこくりとした。それは恋しくもあり慕わしくもあるという意味らしい。そして、こくりとうなずいてから、また言った。 「でも、良人のそばにある仕合わせは、そうした想いにまさっておりまする」 不意に勝頼は顔をそむけた。 このあたりでも鶯の声が谷から谷、森から藪
へとわたていった。 「太郎!」 震えながら勝頼は、わが子の名をはげしく呼んだ。 「この勝頼は、三十七年、思いのままに生きて来た」 「お父上!
もはや最期の時かと・・・・」 「黙って聞くがよい。なあ・・・・それゆえ、今ここで命を落としたとしても、さらに悔いるところはない。が、こなたや御前はのう・・・・」 「お父上!」 「哀れじゃ・・・・哀れじゃ。ことにそなたはまだ若く、祖父様ご遺言どおり、武田家の当主ともならぬうち、こうして散るとは・・・・」 「お父上!」
と、太郎はまた鋭くさえぎった。 「太郎がことはお案じ下されまするな。朝顔の花はただ一朝の命でも、この短い時を心のままに咲きほこりまする」 そういうと、不意に彼もまたきびしい表情になって、歌を口ずさんでゆくのであった。
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