追いつめられて、あちこちとさ迷い歩いている間に、春は駆け足でみんなに追いついていた。 万福寺を出ると向かいの山ひだから里へかけて、山桜の波が三重の流れをつくり、な七、八丁も行かないうちに、全身の溶けそうなうららかな陽射しがみんなを抱きとっていた。 小鳥の声と袖に軽い春風と、天地のすべてが嘘のように駘蕩
としている。 「このまま、ずっと歩くつづけたい」 すでに笹子峠ののぼりへかかって、勝頼がひどく歩速のおちた小田原御前のそばへ馬をまわすと、御前はまるで遊山
に出て来たような、甘えた様子で話しかけた。 「わらわには、この峠の先より、山裾をめぐるなだらかな道をとったがよいかに思われまするが」 勝頼はそれをきびしくたしなめた。 「岩殿はそっちではない。疲れたら馬に乗せて進ぜよう」 しかい御前は聞こえぬもののように、その場へしゃがんで小さな菫
をつみとった。 「もう、このような花の束ができました。いっそ、この花のある方へ往
んでみたら・・・・」 「御前、こなたは小山田信茂、迎えには来ぬと思うているのじゃな」 「さあ・・・・」 御前はそれにもあらがうでもなく、あらがわぬでみない様子で、 「ただ、峠の道は難儀ゆえ」 口の中でつぶやいてそのまままた童女のようにかがんで菫をさがすのだった。 勝頼はたまらなくなってまた馬を前方へ駆け離させた。今まではわが思いのままになる世間知らずの十九の姫・・・・そんな風に考えて来ていた御前が、いまでは勝頼よりもはるかに性根のすわった大人に見得て来た。 あるいはもはや死期の間近に迫った事を、鋭い神経で感じとり、そのために勝頼の心をかき乱すまいとしているのかも知れない。 「殿!
やはりこの道は進めませぬ。急いでお引き返しあるように」 先発させてあった土屋惣蔵
が勝頼の行く手へ馳 せ戻って来たのは、かれこれ半ばほど峠をのぼった時であろうか。 「なに、進めぬとは、もはや先に敵がまわっていたのか」 「恐れながら、あの木の間の旗印をご覧ぜられませ。頂上から、われらを北の谷に追い落とそうとして・・・・あれは、まぎれもなく小田山が手の者・・・・」 「ではやはり噂は・・・・」 言われて仰ぐと、峠の上の草かげからワーッと人声がわき上がり、次いで十数条の箭
であった。 「うぬッ!」 はじめて勝頼は、最期の時の来たのを知った。 「このまま登ってゆけば女連れで敵の餌になるばかり、昌次、惣蔵急いで道を・・・・御前と女たちを引きつれて・・・・」 「それで、お館は何となされまする」 「もはや最期じゃ。小山田めが首引き千切って果てようぞ」 だが、そのときには後ろからも長坂入道釣閑が危急を知らせにのぼって来る途中であった。 「殿!
織田信忠が先鋒、あと追いかけて、この峠に迫って来まする。寸時も早く、旗を巻き、山を下ってお避け下さるよう」 勝頼はそれを聞くと、思わず馬をおりて天を仰いだ。
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