上と下から注進にあって、一瞬思案を決しかねた。猛将中の猛将と言われた勝頼はほどの人物が、余にはげしい運命の急転にあってまるで戦を知らぬ村童のように茫然と笹子峠に立ち尽くしてしまったのだ。 行く手には小山田勢、下へは信忠が先鋒、滝川一益がやって来たとあっては、逃れ得る道は、右か左かの草原にさ迷い込むことであった。 これほど事態が急迫していると分ったら、すでに轟村を出るのではなかった。せめて万福寺の近くでみなに最期の到来を告げ、みずからも自決して果つるべきであった。 ところが、まだその別盃も汲んでいない。誰も覚悟は出来ていないのではなかろうか、そう思うと、この期
に及んで勝頼ほどの大将の心を動転させてしまっている。 ここでみんなを散り散りにしてしまったら、いったい女たちはどうなるのか、勝頼の嗣子信勝にしても、まだ十七歳の少年にすぎないのだ。 「よしっ、まずこの場は逃れよう。そうだ、左へ行け。左の笹をのがれるだけ遁
がれてみるのだ」 もはやそれは戦隊でもなければ、意地をかざした集団でもなかった。何の力も持たない一群れの難民に変わってしまった。 女たちは手をとりあって枯れ笹の繁みに中へなだれ込み、わずかにその中へ妻子をおく男たちだけがしんがりにまわった。 勝頼も太郎信勝も、土屋昌次も惣蔵も、長板釣閑も、女たちを遁がすために眼を光らして立ち停まる番犬にすぎなくなった。 そして、その人翌日は寝ずにさ迷い続け、翌々日、見るもむざんな姿で、一行が辿り着いたところは天目山
の南の山裾だった。 天目山は東
山梨
郡
にあり名前は木賊
山、業海
本浄
和尚
が入元してかの地の天目山に詣でて帰朝し、ここに臨済宗
の棲雲寺
を建立して天目山と号したのがその名のもとであった。 その木賊山の南、田野
村の草原に辿り着いたときは、男たちはわずか四十一人、女たちは五十人にすぎなかった。 ここで立ち停まったのも、実は土屋昌次の五歳になる男の子が歩みかねて、草の上に坐り込んでしまったためであったが・・・・ 「さ、よい子じゃほどにのう、もう少し歩いてたもれ」 草の上に坐ってむずかり出した子供を扱いかねている昌次の女房を見ると、勝頼はけわしい表情で立ちどまり、 「誰ぞ負うてやれ」 と、声をかけた。しかし歩き疲れている女たちは誰もすすんでその子を背負ってやろうとする者もない。 「誰ぞ、この子を・・・・」 また勝頼が癇立った声で言いかけた時に、 「しばらくこれにて休息遊ばされましては」 そう言い出したのは、それまでも視線が合うと微笑はするが、ほとんど話すことのなくなっていた小田原御前であった。 「御前も疲れたのか」 「はい、わらわも、新府の城で死にとうございました」 御前は勝頼がギクリとするほど、ハッキリとした声で言って、笑いながら昌次の子のそばへ坐った。 「さ、花を進ぜましょう。よい子じゃなあ」 その日も空はうららかに晴れて、溶けるような陽射しであった。
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