勝頼は馬から降りずに、本堂と庫裡
の間の玄関前に立ちはだかってわめくように言った。 「恵林寺の住持
に申し入れる。ただいま宿を乞うたが武田勝頼とその奥たちと、知って拒まれたか、知らずに拒まれたか」 もはや寺内は暗くて、そこに動く二つ三つの僧形の顔まではよく見てとれなかった。 「よく存じてお断り申し上げました」 「何にッ、勝頼と知って断ったと。その方が住持か」 「住持は不在、われらはこの山門をまもる者どもでござる」 {では、不在ゆえ泊められぬと申すのか」 「いいや、女人をお泊め申すわけには行かぬと申し上げた。それでご不承とあれば護法のために、お手向かい申す」 「おお、その方たちは武装しているな」 さすがの勝頼も、ゾーッと背筋が寒くなった。一、二夜の彷徨
が、すでに連綿 としてこの地を領して来た自分の威力を、泡沫のように消し去ろうとしているのに気づいたのだ。 「そうか護法のためには手向かいもすると申すか・・・・この勝頼が、さらば手向かいもよかろうと、すぐにみなを乱入させても、その勇はくじけぬと申すのだな」 「恐れながらもう一言だけ申し入れる。万一、勝頼さまとその奥方衆をお泊め申そうものなら、この寺は夜襲を受け、こなた様たちも、寺院もそのまま消滅つかまつろう」 「なに、これは聞き捨てならぬ。すると、われらより先に、われらを泊めてはならぬと命じた者があるのだな」 すると玄関の声はふととぎれたが、すぐ思い切ったように、 「その逆でござる」 と、はっきり言った。 「必ずこのあたりへさまよい来ようほどに、来たら宿せよと申された。宿させておいて夜襲をかけ、殿はじめ、旗本衆を討ち取る手段と見たゆえ、この宿きっぱりお断り申したのじゃ」 「それは、敵か、織田の先鋒滝川
一益 が計略か」 「いいや、かくなっては隠し立てもなるまい。そう申して来られた主は峠の向うの岩殿の城主、小山田兵衛尉信茂どのでござる」 勝頼はそれを聞くと、黙って馬を返すよりほかになかった。 (信じられぬ!
これから辿 って行こうとする小山田信茂が、自分たちをこの寺に宿泊させて討ち取ろうと計っていようとは・・・・) しかし、それを押し返して聞く勇気はなかった。 山門を出ると雨脚はだんだんつのり、風も行く手の坂東山からいよいいはげしく吹きおろす。 このままでは疲れ切った女たちの中から凍死者が出そうであった。 「いかがでござりました」 心配そうに訊ねる太郎信勝に、 「このあたり、ほかにも寺はあった。そうじゃ、轟
村の万福寺におもむこう。急げよ」 勝頼はそう言った後で、自分から後になっている御前の前へ手綱をさばいて馬を近づけた。 うかつにつつじが先を出てしまって、そのまま入る城を失くしたという事が、何か嘘のような気がして来る。ついこの間まで、甲斐、信濃、駿河、遠江、三河の五ヶ国を領していた勝頼が、女房どもと一緒にさまよい歩いて・・・・ そう思うと急に切なく、空腹がはげしくなった。
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