「御前、これにおられたのか」 勝頼がま新しい城門をくぐって出て来たのはもうそろそろあたりが暗くなりかけたときであった。 「これ、松明
をともせ、灯りを惜しむな」 勝頼は自分の乗馬を曳いている供廻りの者に弾けるような口調で言ってから、 「御前、もう案ずることはない。小田山信茂がもとから迎えが参ったぞ」 昂ぶりきった様子で妻の前へ立ちどまった。 御前はただよい出した夕靄
の中へ陶器のような無表情さで立っていて、すぐには答えようともしなかった。 「案じたであろう。無理もない。つつじが崎の館では戦えず、楽しみにして来たこの城は、まだこのとおり出来上がってはいなかった。奉行どもめ、予をたばかって、報告してきた半ばも工事は進んでいなかったのじゃ」 勝頼はその工事の停滞が、民生の疲弊にあるのを知っているのかどうか。 「とにかく急がねばならぬ。女たちは歩き馴れぬことゆえ辛かろうが、このまますぐに岩殿へ出発しよう。案ずる事はない。道中は灯をふやし、行列の前後はきびしく警護させようほどに。それに、敵も夜道はかけまいでなあ」 「上さま!」 勝頼の言葉の切れ目で、不意に鋭い、突き刺すような御前の呼びかけだった。 「わらわは、この城に残りとうござりまする」 「なに、この城に残る。・・・・ハハハ・・・・無理を言うものではない。この城に残っていて、敵がやって来たら何とするのだ」 「そのときには立派に自害いたしまする。上さま!
上さまも、この城で討ち死にと、お覚悟なされて下さりませ」 それは今までの御前とは打って変わってひたむきな顔であり声であった。 「お願いでござりまする。わらわは、わらわにいとしい上さまが、城をなくしてさ迷うお姿・・・・この眼で見とうはござりませぬ」 「ハハハ・・・・」 と、勝頼は笑いとばした。いや、笑いとばそうとして、笑いきれない不安のしこりが胸に残ってゆくのがたまらなかった。 「御前は武将の意地を知らぬと見えるな。武将はのう、万一負け戦とわかっても戦うだけは潔
う戦うてみるのが意地じゃ」 御前ははげしく首を振った。 「わらわは厭
でござりまする」 「はて、聞き分けのない事を言い出したものじゃ」 「と、仰せられて、もし戦いに負ける上さまのお姿を見て、わらわが、もし・・・・上さまを嫌いになったら何と遊ばしまする。それゆえ・・・・この城に残りとうござりまする」 「御前!」 勝頼はグサリと胸を刺された気がして、思わず声を荒げていた。 「この期に及んで、何を言わるる。岩殿の城はのう、こなたの実家、相模
に近い。この勝頼に万一のことある場合は、こなたを無事に相模へ送り届けたいと思えばこそじゃ。もはや、とこうの抗弁は相ならぬ。輿に乗られよ」 御前はそれでもしばらく、じっと勝頼を見まもったままだった。何か行く手に計り知れない悲惨さが待ち受けている
── そんな気がしてたまらなく心の震える御前であった。 |