新府の城は、穴山梅雪の進言で甲府の西、韮崎
の天嶮に普請中であった。 「── 先君は英邁
にして、しかも仁慈 のこころ厚く、国をそのまま城として、別に城廓の構えはあらず、されど当主勝頼公は父に比して、武力ははなはだ劣るばかりでなく、信長、家康、氏政とみな敵にしてしまっている。このうえは要害の地を選んで城を築かねばなるまい」 まっ先にそれを言い出した穴山入道は、すでに徳川氏に降服してしまっている。 そして三方から破竹の勢いで進撃して来る敵を前にしてのあわただしい移転であった。 が、そうして移っていった新府の城もまた、全然頼むに足らなかった。 わざわざ選んだ天嶮の地であったが、そこへおびただしい建築資材を運び上げるために、坦々
とした道がついてしまっている。そのうえ矢倉も城壁もまだ荒塗りを終わったばかりで、鉄砲はおろか、矢さえ防ぐに足らなかった。 小田原御前の行列は城壁の前で停まるように命じられ、途方に暮れた。大勢の人夫に運ばせて来た身廻りの荷物さえおろすところがなかったのだ。 先発していた勝頼のもとから、土屋昌次の弟土屋昌恒
がやって来て、 「この城へお入りなさること、しばらくお見合わせ下さるように」 そう言われたときに、小田原御前ははじめてきびしく頬をこわばらせた。 「この城へ入るなとは、このまま府中へ引っ返せとの仰せか」 「いいえ、それが・・・・」 と、昌恒は狼狽して面を伏せると、 「ただ今、いずれへ落ち着こうかと評定中にござりますれば」 「なに、いずれへ行くかと評定中?」 御前はそう言うと、自分の後ろに長く続いてくる女たちの行列をふり返った。 いずれも、ここへ到着すれば、つつじが崎の館にあったと同じ生活が待っているものと信じきって来る列であった。 「では、もう府中へは戻れぬのか・・・・」 「いましばらく、何とぞ・・・・多分、岩殿城
の小田山 兵衛尉
信茂 どののもとから、お迎えの者が参るはずにござりますれば・・・・」 岩殿城は都留
郡 にある小田山信茂の居城であった。 「分りました。待ちましょう」 御前は昌恒を返すと侍女を呼んで輿を出た。 どこかでしきりに鶯が鳴いている。 雨になったら、それこそ眼もあてられぬ旅であったが、幸い今日もよく晴れて四方の山なみがあいたいと霞んでいる。 「そうか・・・・もう落人
になっていたのか」 「は、何と仰せられました?」 手をとっている侍女に、御前はもう一度柔らかい声で言った。 「話には聞いていました。戦に負けると落人になるそうな」 「えっ?
それは・・・・まことのことで・・・・」 「まことらしい」 御前はまるで他人
ごとのようにだんだん色づく西の空を見上げて眼を細めた。 「その方がよいかも知れぬ。負けてしもうたら戦はない。戦がなければ女子は殿御のおそばにおれよう・・・・」 またすぐ近くの野梅
の花かげから、澄んだ鶯の声が聞こえた。 |