〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part [』 〜 〜

2011/08/12 (金) 落 花 有 情 (四)

太郎信勝は、敗れたのかと訊ねられると、思わずはげしく舌打ちし、しかし、思い直したように、怒りをかくした。
「御前は何事もご存じない。まだ敗れはいたしませぬが、この城では、敵は防ぎきれませぬ」
「そのように大勢で攻め寄せまするか」
「はい、徳川、織田、金森の三軍、おそらく五万ともなりましょうか」
そういってから、少しじれたように、
「それに小田原勢も加わったら、六万になるか七万位なるか・・・・」
「では、上様は、今宵はここに起こし遊ばされぬか」
御前には五万、六万という兵数などは、ただ多いという意外に、何の実感もないらしかった。
「たぶんお成りにはなれますまい。武器弾薬のお指図だけは、急がねばなりませぬ」
御前は黙った。その面にありありと失望の色がただよい、坐った姿勢が悄然としていった。それは玩具をとられた童女の姿を連想させる。
「では、老女どもを呼んで、すぐにお指図くださりまするように」
太郎信勝は、もう姫の相手は出来ぬといいたげな調子で、きちんと一礼すると去っていった。
老女たちはようやく不安そうな表情になって御前の顔をさしのぞいている。
御前はしばらくして、ぼんやりと琴に視線を落としていたが、やがてポツンと、まっ白な指で糸をかき鳴らしだした。
もう城外はごった返す騒ぎになっている。その中で春雨の静かな音と琴の音とが、何か人生と隔絶したわび しさをただよ わす。
侍女が三人の老女を呼んで来た。この老女たちがいわばこの城の家老に当たるのだったが、彼女たちは眉根を寄せて御前のうしろと両側に坐ってゆく。
しかし御前はいぜんとして、弾くでもなく、弾かぬでもない調子で琴をろう しつづけている。
「もし、御前さま」
右側に一人が、たまりかねたように口を開いた。
「明早朝、新府のお城へお移りとききましたが、ご用意いたさねば・・・・」
「ああ、よいように取り計ろうて」
「では、私どもで命じてよろしゅうござりまするか」
「ああ・・・・」
三人は眼くばせして立ち上がった。奥向きで使っている女たちの数だけで二百三、四十人はいる。そのそれぞれが、一夜で移転の用意をしなければならないのだ。
奥はまた急にざわめき立った。
なにしろ五万とか六万とかいう、想像もつかない軍勢がこの城へ攻めて来るというのだ。そんな軍勢が押し寄せて来たらどうなるのか?てんで見当のつかない女たちだった。
女たちはすご六や歌かるたの類から、食べ残りの菓子までもの惜しそうにまとめあげ、やがて長局ながつぼね は見る間に荷物の山になっていった。
それでもまだしばらく御前の居間の琴はやまない。陽が落ちかけて琴がやんだと思うと、こんどは御前は短冊と筆をもって、うっとりと春の雨あらしに見入っていた。

「徳川家康 (七) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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